NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/3/5


弥彦神社 yahiko-jinjya yahiko Shrine

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 越後平野の中央にそびえ立つ弥彦山の麓に、弥彦(伊夜比古)神社(やひこ(いやひこ)じんじゃ)はある。越後国の一ノ宮である。
 境内はうっそうとした樹林に覆われ、長い月日を経てきた老杉、古欅が佇んでいる。その創建年代は不詳だが、万葉集にも歌われたほどの古社。
 祭神は天香山命(あめのかごやまのみこと)。神武天皇の命を受け、越後国開拓のため地元の民に、漁労や製塩、稲作や養蚕などの農耕術を教えたという。かつては、伊夜比古さまと呼ばれ、越後の人々の心のふるさと、魂のよりどころとして、古くから栄えてきた。
 日本有数の長い日本刀である志田大太刀(しだのおおたち、重要文化財)や、源義家や源義経らに所以すると伝えられる武具などの文物が、社宝として宝物館に展示されている。
 現在の社殿は、火災のために焼失した後、大正五(1916)年に再建されたものである。
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丸岡城 Maruoka-jyo Maruoka Castle

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 現存する日本最古の天守閣を誇る丸岡城。古風な野面積みの石垣の上に立つその天守は、小さいながらも素朴な姿を今に伝えている。その築城は天正四(1576)年。
 戦国時代、北陸地方を収めた織田信長は、働きに対する恩賞として、柴田勝家に越前の国を与え、豊原に築城を命じた。後に交通の利便性などから、その甥勝豊が丸岡に移築した。
 ニ層三階建の特異な建築法で、上層に廻縁をぐるりと巡らした望楼を乗せている。屋根の笏谷石製の瓦、太い出格子、黒い板壁など、初期の天守閣に顕著な特徴を持っている。
 丸岡城は、血が血を洗う戦乱期をくぐり抜けてきた。伝説によると、戦がある度に大蛇が現れ、霞を吹いて城を隠したことから、別名「霞ヶ城」とも呼ばれている。
 昭和九(1934)年、国宝に認定されたが福井大震災により倒壊。後に修復され、重要文化財となった。
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2007/4/23


奥家住宅 Okukejutaku 

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 奥家(おくけ)住宅は、江戸時代の建築としては珍しく、建築年代が明確にわかっている民家である。広島県三次市舎町に所在し、国の重要文化財に指定されている。
 奥家住宅は、かつて旧樫井村の庄屋であった奥家の住居跡で、江戸時代中期の天明八(1788)年の建築を示す「普請帳(ふしんちょう)」の記録と小屋裏の棟束(むねつか)に棟札が残る。主屋は六間に台所が付いた間取りで、規模の大きい当初の姿をそのままとどめた貴重な遺構であり、江戸後期以降広く普及した、大型六間取り遺構の典型的な例である。主屋の土間上にある五重に組まれた太い梁は見ごたえ十分。塀も美しく、これからもさらに後世に伝えていきたい歴史的価値のある史跡だ。
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2006/12/18


白川郷(世界遺産) Shirakawa-go(Sekai-isan) Shirakawa-go (World Heritage)

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 平成八(1996)年、世界遺産に認定された「白川郷・五箇山の合掌造り集落」。白川郷とは、岐阜県白川村荻町の合掌造りの集落を指す。合掌造りの家屋の多くは、江戸時代末期から明治時代に建てられた。
 合掌造りとは、木材を梁の上に山形に組み合わせて建築された住居で、勾配の急な茅葺き屋根を特徴とする。屋根が三角形になっているのは、積雪の多さに対応するため。建物が南北に面して建てられているのは、白川の風向きを考慮し、風の抵抗を最小限にするとともに、屋根に当たる日照量を調節し、夏は涼しく、冬は保温される合理的なしくみである。
 ドイツの建築学者ブルーノ・タウトが「極めて論理的、合理的で、日本には珍しい庶民の建築」と自著で紹介し、世界的に知られることになった。
百棟余りの合掌造りの家が並ぶ風景は、日本の里山の原風景を思い出させてくれる、やすらかさに満ちあふれている。
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2006/12/15


三内丸山遺跡 Sannai-maruyama-iseki Sannai Maruyama Historical Site

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 青森市にある日本最大級の縄文集落跡。その存在は江戸時代より知られており、昭和になって行われた本格的な発掘調査によって、今から約5500年前から4000年前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていたことがわかった。集落跡からは、竪穴住居跡、大型竪穴住跡、大人の墓、子どもの墓、盛土、掘立柱建物跡、大型掘立柱建物跡、貯蔵穴、粘土採掘坑、捨て場、道路跡などが見つかっている。発掘幾度かの調査によって、縄文時代の自然環境や生活、村の様子などが具体的にわかってきた。
 2000年には、「遺跡の国宝」と言うべき特別史跡に指定。遺跡は通年で公開され、自由に見学することができる。
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2006/11/29


愚陀仏庵 Gudabutsu-an Gudabutsuan 

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 愚陀仏庵は、愛媛県松山市にある夏目漱石ゆかりの史跡。漱石が明治26年(1893年)に英語教師として松山へ赴任した折に下宿、一時期正岡子規が居候していたこともある2階建て住まいだ。現在、市立子規記念博物館と萬翠荘裏に復元・建造されている。
 愚陀仏庵の名付け親は正岡子規。子規の同居時にはここ愚陀仏庵に俳句仲間が集まってにぎわったという。子規が日本派俳句結社「松風会」の会員に日夜、俳句の指導をし、漱石も自らを「愚陀仏」と称して俳句に熱を上げた。当時、文学者として迷いがあった漱石にとって、俳句は格好の自己表現の道標となったのである。
 その後夏目漱石は1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。文豪としての道を歩む。愚蛇仏庵は、漱石にとって創作の原点だったのかもしれない。
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子規堂 Siki-dou Shiki-do

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 子規堂は愛媛県松山市にある、松山出身の俳聖正岡子規にちなむ観光施設である。子規が17歳まで過ごした生家の一部である8畳の書院を正宗寺の境内に復元したものだ。
 内部には子規の子ども時代の勉強部屋を再現したコーナーがあり、彼が愛用した簡素な文机や座布団、筆などが当時の面影そのままに陳列されている。また、遺墨、写真、文献などの貴重な資料が数多く展示されており、文学資料館の役割も果たす。
 境内には高浜虚子、内藤鳴雪ゆかりの碑、漱石が小説の中で「マッチ箱のような汽車」と称した通称「坊ちゃん列車」の客車などもあり、俳都松山独特の情緒ある雰囲気に浸ることができる。
 子規堂は、昭和23年に愛媛県指定の史跡に認定された。
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2006/11/27


渡邉邸 Watanabe-tei Watanabe-tei

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 新潟県岩船郡関川村に位置する重要文化財・渡邉邸。豪農・渡邉家の大邸宅500坪と庭園など合わせて3000坪を保存・公開している。
 村上藩主の家臣だった渡邉家初代は江戸時代、1667年に関川村下関に隠居。その子孫は米沢藩勘定奉行格を受けるまでに繁栄したという。全盛期には75人の使用人を抱え、千ヘクタールの山林を経営、700ヘクタールの水田から一万俵の小作米を収納したと伝えられている。
 切妻造りの母屋をはじめとして、米蔵、味噌蔵など6つの土蔵が国の重要文化財に、回遊式庭園が国の名勝に指定されている。屋内には書画・骨董品・農耕具・甲冑などを展示。当時の繁栄と暮らしぶりを偲ばせる。当時使われていた姿そのままの囲炉裏もあり、散策の後などに暖まるのも一興だ。
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