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2008/9/12


臨春閣 Rinsyunkaku 

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 臨春閣(りんしゅんかく)は、神奈川県横浜市にある庭園、「三溪園」(さんけいえん)内にある数寄屋風書院造りの別荘だ。
 三溪園は明治の実業家、原三溪が五万三千坪もの広大な自宅敷地内に大小さまざまな建築物を移築して公開した庭園である。
 臨春閣は、その広い園内の北側を占める内苑に位置している。
 元は紀州徳川家初代藩主、徳川頼宣が夏の別荘として、現在の和歌山県岩出市を流れる紀ノ川のほとりに建てた「厳出御殿」である。慶安二(1649)年に建てられ、日本に残る唯一の大名別荘建築として、国の重要文化財にも指定されている。この厳出御殿を大正四(1915)年に園内に再建、原三溪自身が臨春閣という名をつけた。
 来客や家臣の控所である第一屋と紀州候が来客と面会した第二屋、奥方の居間である第三屋で構成されており、襖絵は狩野探幽や狩野安信らによって描かれている。
 様々な木々と苑池が織り成す趣きある庭の中で、堂々たる佇まいを今に伝えている。
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2008/8/29


那谷寺 三重塔 Nata-dera Sanjuu-no-tou 

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 石川県小松市のにある那谷寺(なたでら)の三重塔は、江戸時代の寛永一九(1642)年に建立され、高さ約11メートル、桧皮葺(ひわだぶき)、禅宗様を基調とした建物である。
 三層共に軒下が放射状に配される扇垂木(おおぎたるき)になっており、技巧が高く美しい。
 一番下の軒である初層に比べ、二層目の軒が急に小さく、さらに三層目もわずかではあるが小さい。その上に長い相輪が続き、小塔ながらバランスの良い、安定感のある印象だ。 
 平成一九(2007)年の大改修の際に、相輪の土台部分である露盤に、名工宮崎彦九郎吉綱の銘や、建立に携わった工人達の名、露盤の製作経緯などが記されてたことが分かった。
 初層の壁面には、唐獅子の二十の行態や牡丹の細かい浮き彫りが施されており、内部には四天柱(してんばしら)と、胎蔵界の大日如来を安置している。
 昭和一六(1941)年、国の重要文化財に指定されている。
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2008/8/25


乙宝寺 三重塔 Oppou-ji Sanjuu-no-tou 

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 乙宝寺(おっぽうじ)は、新潟県胎内市中条町乙にある真言宗智山派の寺である。本尊は大日如来。
 天平八(736)年、聖武天皇の勅命によって行基菩薩、婆羅門(ばらもん)僧正らが北陸一帯の安穏を祈り開山したと伝えられる。「今昔物語」や「古今著聞集」にも登場する、新潟県屈指の古刹である。
 三重塔は、十四世紀中に建設され、元和六(1620)年、村上城主村上忠勝によって再建、完工された塔である。造りは三間三重で、その屋根は本瓦葺になっている。高さは24.2mで、本尊として普賢菩薩像を安置しており、国の重要文化財に指定されている。
 乙宝寺の三重塔は、紅葉との組み合わせも美しい、純和様の寺院塔婆である。
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2008/7/24


西宮神社 Nishinomiya-jinja Nishinomiya Shrine

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 西宮神社(にしのみやじんじゃ)は銘酒灘五郷の一つである兵庫県西宮市の中央に鎮座する神社である。日本に3500社もあるえびす神社の総社であり、地元では西宮のえべっさんとして親しまれている。
 創建時期は定かではないが、古い文献によると承安二(1172)年にその名がうかがえる。室町時代に大流行した七福神信仰の中心として謡曲、狂言などを通じて全国にその御神徳が知れ渡っていった。大阪文楽や淡路の人形浄瑠璃は西宮神社のえびす舞がルーツといわれている。その後も、豊臣家、徳川家からも篤い寄進を受け、商業の発展とともに商売繁盛の神様として大きく躍進していった。
 太平洋戦争では戦火に見舞われたが、昭和三六年に見事に復元された。室町時代建立の大練塀と桃山建築様式の表大門は国の重要文化財に指定されている。
 新年の初め、一月九日から一一日の三日間は十日えびすとして100万人を越える人々が訪れ賑わいを見せる。
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2008/7/9


金剛證寺 Kongoushou-ji 

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 金剛證寺(こんごうしょうじ)は、三重県伊勢市の朝熊山(あさまやま)南峰の経ヶ峯に位置する古刹で、御本尊は日本三大虚空蔵菩薩の一つ、福威智満(ふくいちまん)虚空蔵大菩薩である。
 伊勢神宮における北東の方角である鬼門を守る寺としても知られている。
 その創建は、第二九代欽明天皇の御代(509~571)、暁台(きょうたい)上人によって明星堂が開かれたのが始まりとされる。
 平安時代の天長二(825)年には弘法大師によって真言密教道場として堂宇が建立され、密教修業の大道場として隆盛を誇った。
 その後、衰退を見せるも応永年間(1248~1394)に仏地禅師により再興され、以来禅寺に改められて今に至っている。
 現在の本堂は、岡山城主であった池田輝政の寄進により、慶長一四(1609)年に再建されたもので、その一重寄棟造の堂々たる巨宇は国の重要文化財に指定されている。
 境内には約一万柱が立ち並ぶ供養卒塔婆、その卒塔婆道への入り口に立つ極楽門などがある。
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2008/7/7


沢瀉威鎧 Omodakaodoshi-yoroi 

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 沢瀉威鎧(おもだかおどしよろい)は、愛媛県今治市大三島町宮浦の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)に伝わる防具である。国宝に指定されている。
 大山祇神社は、推古天皇二(594)年に創祠されたと伝わる、日本総鎮守ともされる古社である。祭神は大山積神(おおやまつみのかみ)。国宝8件、国の重要文化財75件を所有する日本有数の神社である。
 沢瀉威鎧は、藤原純友の乱で純友の討伐に活躍した、共に軍事警察的な官職である追捕使(ついぶし)と越知押領使(おちおうりょうし)を兼任していた藤原好方所用と伝わる鎧で、940年前後に作られたとされ、日本に現存する最古の鎧と言われている。
 沢瀉とは別名「勝ち草」とも呼ばれる沢に自生する草の一種で、沢瀉威鎧は沢瀉の葉の形に似せて上を狭く、裾開きに作られている。
 沢瀉威鎧は、現代に残る最古のものとされる貴重な鎧である。
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2008/6/23


紀州東照宮 Kishuu-toushouguu 

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 紀州東照宮(きしゅうとうしょうぐう)は、和歌山県和歌山市和歌浦に鎮座する古社で、全国に十九宮ある東照宮の一つだ。
 徳川家康の十男でもあった紀州藩祖徳川頼宣(よりのぶ)公によって、元和七(1621)年に南海道の総鎮護として創建されたもので、徳川家康を神格化した東照大権現と、頼宣を神格化した南龍大神を祀っている。
 「関西の日光」とも称される威風堂々たる社殿は、桃山時代の遺風をうけた「権現造り」となっており、朱塗の楼門や拝殿、本殿など主要建造物七棟が江戸初期を代表するものとして国の重要文化財の指定を受けている。
 また、刀剣や様々な衣料など一七点におよぶ秘蔵品も重要文化財の指定を受け、同宮で大切に保管されている。
 本殿には左甚五郎作の「緋鯉真鯉」の彫刻や狩野派、土佐派の襖絵などが内部に施されるなど、関西日光の名に恥じない威風を今に伝えている。
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2008/5/14


重蔵神社 Juuzou-jinja 

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 重蔵神社(じゅうぞうじんじゃ)は、石川県輪島市にある輪島港近くの町、河井町に鎮座する神社である。
 その創祀年代は定かではないが、社伝によれば崇神天皇の御代(紀元前97~30)、大彦命(おおびこのみこと)により、神田を寄進されたこともあるとされる古社である。
 平安時代に編纂された延喜式神名帳にも、鳳至比古(ふげしひこ)神社、あるいは辺津比咩(へつひめ)神社として載せられている。
 天平勝宝八(756)年、修験道の僧、泰澄により現在の地に寺院が建立されることとなり、以後、神仏習合のお社として発展していくこととなる。
 十蔵大権現、または重蔵宮とも称され、最盛期には七堂伽藍が立ち並ぶ荘厳な境内であったといわれている。
 本殿は明治四三(1910)年に焼失するも、翌年には原形を元に再建され、国指定重要文化財である社宝の木造菩薩面と共に、悠久の歴史を今に伝えている。
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