NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/2/22


かにかくに祭 Kanikakuni-sai 

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 かにかくに祭は、京都祇園を流れる白川の巽橋付近に立つ歌人・吉井勇(よしいいさむ)の歌碑の前で、毎年一一月八日に行われる花街行事の一つ。
 吉井勇は明治一九(1886)年一〇月八日、東京生まれ。北原白秋、森鴎外、石川啄木らと親交があり、文芸談義を楽しむ「パンの会」を結成したり、文芸雑誌「スバル」を創刊するなど活躍した。晩年は京都に在住し、祇園をこよなく愛し、祇園にまつわる多くの歌を詠んだ。
 祭は昭和三〇(1955)年一一月八日、吉井の古希を祝い、谷崎潤一郎らによって「かにかくに 祇園はこひし 寝るときも 枕のしたを 水のながるる」の歌碑が立てられたことに始まる。場所は、この歌が詠まれたといわれるお茶屋「大友(だいとも)」の跡地が選ばれた。
 旧知が集い故人を偲び、華やかな着物姿の舞芸妓によって歌碑に献花が行われる。色づき始めた木々に囲まれ、京の秋はこの日、一層の華やかさを増す。
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2007/12/28


小河内 鹿島踊 Ogouchi Kashima-odori 

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 小河内神社(おごうちじんじゃ)は、奥多摩湖と呼ばれる小河内貯水池建設の際に水没した地区に祀られていた、九社十一祭神を勧請して創建された。都民の水の護り神ともいうべき神社である。
 その小河内神社創建以前から、集落の氏神であった加茂神社にて、祇園踊と呼ばれる民俗芸能が披露されていたという。
 水没以降は、小河内神社の秋の例祭にかつて住んでいた人々が集まり、河内鹿島踊(おごうちかしまおどり)を奉納するようになった。
 小河内鹿島踊はこの地独特のもので、本来は女装した若者衆が踊るものだという。元村民の高齢化が進む中、国の無形文化財にも指定されている伝統芸能を、絶やしたくないという強い気持ちで、次世代へ伝えようとしている。
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2007/12/26


博多おはじき Hakata-Ohajiki 

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 博多おはじきは、博多どんたくと博多祇園山笠と並び、博多三大祭りの一つに数えられる「放生会」(ほうじょうや)で限定販売されている、素焼きの素朴なおはじきである。
 福岡県福岡市にある筥崎宮(はこざきぐう)で、秋の例祭として毎年の九月一二日から六日間行われる放生会の初日、朝八時からお札所で販売が行われている。
 昭和五四(1979)年から、博多人形師達で構成する会が、博多人形に用いられるのと同じ土で手作りしているもので、今では放生会の名物の一つとなっている。
 そのデザインは様々で、様々な風物が直径二cmほどの丸い土台の上に形造られている。また、一セットにおよそ三〇個ほど入っているが、どれ一つとして同じものはない。
 毎年、表面のデザインも一新されるために人気も高く、午前中には売切れてしまうという。
 その手作り感溢れる、可愛らしく素朴な味わいのおはじきは、今も多くの人々を惹きつけている。
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2007/12/20


八重垣神社祇園祭 Yaegakijinja-gionmatsuri 

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 八重垣神社(やえがきじんじゃ)は、千葉県匝瑳市八日市場にある神社である。祭神は健速須佐雄命(たけはやすさのおのかみ)、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、大名牟遲神(おおなむぢのかみ)、豊宇氣比賣神(とようけひめのかみ)、武御名方神(たけみなかたのかみ)。
 延元三(1338)年に勧請され、創建されたと伝わっている。
 八重垣神社祇園祭(ぎおんまつり)は、毎年八月四日・五日に行われている祭りである。元禄一〇(1697)年頃に始まったとされ、神社を中心に10町内から20数基の神輿が繰り出される。
 笛・太鼓のお囃子に合わせ神輿が担がれ、「あんりゃぁどした」という威勢のいいかけ声で練り歩く。この際、全国でも珍しい女性だけが担ぐ女神輿も見物である。
 祭りのクライマックスは神輿連合渡御で、集まった20基以上の神輿と囃子連が、延々と連なって市街を練り歩く。
 八重垣神社祇園祭は、八日市場を彩る勇壮な夏祭りである。
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2007/12/14


市来の祇園祭 Ichiki-no-gion-matsuri 

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 鹿児島県いちき串木野市の市来地区でおこなわれる市来の祇園祭(いちきのぎおんまつり)は、毎年七月下旬の土曜日に開催される。
 祇園祭は、文化九(1812)年の八坂神社建立の際、湊町が商港や宿場町として栄えた頃に京都の祇園祭をまねておこなわれたのが始まりである。囃子山は、若松宇吉が京都で習ってきたものだといわれている。
 勇壮活発な男山は、栄町の「加藤山」と天神町の「天神山」、京の優雅で華麗な女山は、祇園町の「道風山」と土橋町の「龍宮山」である。四つの集落による合計四台の山車が、太鼓と金を叩きながら街中を練り進む姿が見物となっている。
 市来の祇園山は県内一の大きさを誇り、正面二・五メートル、奥行き三・五メートル、高さは二階建てで五メートルもある。
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2007/12/11


鳳凰の舞 Houou-no-mai 

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 鳳凰の舞(ほうおうのまい)は東京都西多摩郡は平井地区に伝わる民俗芸能である。
 この地区の鎮守・春日神社の祭礼に奉納される舞で、雨乞いの舞として京都から伝わったといわれている。祇園囃子と風流踊り、さらに太刀踊りが加わり、江戸と京都それぞれの特徴を合わせ持っている珍しい伝統芸能だとされている。
 子ども達による「奴の舞」が披露された後、大人の「鳳凰の舞」が披露される。
 鳳凰とは中国の伝説の鳥で、それを模した冠をつけた者五人が白い襷をつけ、赤い頭巾の者達五人と円になって、太鼓の音と共に迫力のある、勇壮な踊りを披露するという。
 地元保存会の熱心な支えにより、今も活発に行われている希少な伝承で、国の重要無形民族文化財にも指定されている。
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2007/12/3


おぎおんさあ・かごしま夏祭り Ogionsaa Kagoshima-natsu-matsuri 

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 おぎおんさあ・かごしま夏祭りは鹿児島の夏の風物詩として有名な、鹿児島市天文館地区を中心に繰り広げられる壮大な夏祭りである。
 おぎおんさあ(祇園祭)の由来は平安時代、貞観一一(869)年に日本全国に疫病が蔓延したときに遡る。時の朝廷は疫病の原因は八坂神社の御祭神である素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであると、その霊を鎮める御霊会(ごりょうえ)を全国で行った。これが祇園祭の始まりといわれている。江戸時代に入ると庶民の祭りとして定着していった。
 祭りは市を上げて行われ、八坂神社のご神幸行列や夏祭大ハンヤ等など色々なイベントが開かれている。
 近年は三味線、太鼓などによる祇園ばやしも復活し、多くの人で賑わいをみせている。
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2007/11/22


舞妓 Maiko 

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 舞妓(まいこ)とは、大体20歳ぐらいまでの芸妓(げいこ、げいぎ)見習いの若い女性である。
 芸妓とは、花街にて唄や踊り、三味線などの芸で宴席に興を添える事を仕事とする女性で、座敷や舞台に上がる時は白塗りの厚化粧をするが、舞妓は同時に日本髪を結い、華やかな花簪を挿す。
 舞妓とは、芸妓になる前の未成年の少女のことで、舞妓として約5年間修行した後、芸妓になる。
 舞妓・芸妓は京都の祇園をはじめとする花街の置屋(おきや)に所属しており、そこから各お茶屋へ送り出される。
 舞妓の始まりは、江戸時代中期の1700年頃、水茶屋で働いていた茶汲女(ちゃくみおんな)や茶点女(ちゃてんおんな)が始まりだと言われている。
 最初は参詣人に茶をふるまう程度だった水茶屋も、やがて茶が酒になり、茶汲女や茶点女が歌を聞かせ舞を見せ、永い年月を経て舞妓、芸妓になったとされる。
 舞妓は、非常に厳しい独特のしきたりや伝統を持つ職業である。
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