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2008/9/29


寒川神社 Samukawa-jinja 

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 神奈川県高座郡寒川町宮山にある寒川神社(さむかわじんじゃ)は、相模国では最も社格の高い神社・一宮として長い歴史を持つ。
 創建時期については神亀四(727)年に社殿を建立したという記録もあり、定かでない。
 祭神は寒川比古命(さむかわひこのみこと)と寒川比女命(さむかわひめのみこと)。祭神については様々な諸説はあったが、明治九(1876)年に現在の祭神とした。
 歴史上では源頼朝、北条義時、武田信玄といった武将や、徳川家代々より崇敬を受けたと伝えられる。また、国内唯一の方位除・八方除の守護神として信仰を受けている。
 八方除の祈願は地相・家相・方位・日柄・厄年などに由来する全ての災難を取り除き、生活が好転・向上するようにと願うことである。その年が「八方ふさがり」に当たる人が八方除けの祈願のために特に多く訪れる。
 一年を通して祭りと行事が行われ、参拝者も後を絶たない神社である。
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2008/6/30


神岡城 Kamioka-jou 

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 神岡城(かみおかじょう)は、岐阜県飛騨市神岡町城ケ丘にあった城である。
 永禄七(1564)年、越中への侵攻拠点とする事を目的に、武田信玄の命令で江馬時盛(えまときもり)が築城し、高原諏訪城の支城となった。
 天正一三(1585)年、金森長近による飛騨攻略の結果、その家臣・山田小十郎が城代となったが、元和元(1615)年に江戸幕府の一国一城令で破却され、廃城となった。
 元々は江馬館、東町城などと言われ、江戸時代に書かれた「飛州志」には江馬之御館と書かれていたが、昭和四五(1670)年、城跡に模擬天守を造った時に、神岡城という名前になった。
 現在、城跡には再現された天守閣や残された遺構である壕や石塁などがあり、内部では実際に使用された鎧、刀剣、馬具などが一般公開されている。
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2008/5/15


甲州だるま Kousyuu-daruma 

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 甲州だるまは山梨県甲府地方の伝統工芸品で、大神宮祭・十日市などの縁日で招福・厄除けの縁起物として売られ、一般的な赤だるまのほかに数種類ある。
 江戸時代初期に地元の武井八衛門(たけいはちえもん)という人物が、武田信玄の顔を模して作り始めたのが、はじまりと伝えられている。農家の副業として発達し、かつては十数人の職人がいたが、今では製作者は市内に一人だけという。
 柳や桜の木型に和紙を幾重にも張り付けし、重しを乗せ赤や白の塗料を塗り重ね、最後に面描きをして数日間乾燥させる。完成まで二〇以上の工程を要し、製作にはおよそ一ヵ月かかる。
 四百年の伝統に培われた気品と風格はまさに天下一で、顔面の彫りが深く鼻が高いのが特徴。目玉を下まぶた寄りに書き入れるため、神棚に祀ったとき、拝む人と目が合うように見えることから、「下見だるま」とも呼ばれる。
 豊作を願う白だるま、子孫繁栄を願う親子だるまといった、この地方特有の珍しいものもある。
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2008/5/1


荒砥城 Arato-jou 

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 荒砥城(あらとじょう)は、長野県千曲市上山田温泉にあった城である。
 大永四(1524)年、平安時代からのこの地の豪族・山田氏が築城したと伝わり、山田城、砥沢城とも呼ばれる。
 その後、山田氏は滅び、川中島合戦の頃(1553~1564)には、武田軍と上杉軍による激しい争奪戦が繰り広げられた。
 天正一〇(1582)年、武田氏が滅亡した後、荒砥城は屋代氏、清野氏、寺尾氏などの七氏による十日在番とされた。
 翌年、徳川家康が屋代秀正に更級郡の安堵を密約し、秀正は荒砥城に立て籠もった。しかし上杉景勝配下の軍勢に攻められて落城し、秀正は家康を頼り敗走、以後荒砥城は廃城となった。
 現在、城山史跡公園では、中世の史実に基づいて館や見張り台、兵舎、門などが復元され、戦国時代の山城の姿を現代に蘇らせている。また、桜の名所でもある。
 荒砥城は、戦乱に翻弄された戦国時代の山城である。
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2008/4/22


もののふ(MONONOFU) mononofu Mononofu

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 サムライではなく、「もののふ(MONONOFU)」。自由で革新的な戦国時代の雰囲気を表現・発信する戦国ブランドである。
 現代アートの推進と伝統工芸の復権。そんな相反するかのように見える2つをさりげなく、しかし大胆に結びつけたのは歴史好きの一サラリーマン。
 国立博物館で変わり兜を見た田中秀樹氏は、これまで知らなかった世界を知り、圧倒されるとともに、その時興味を持っていたインディーズTシャツとのコラボレーションを考えたという。
 変わり兜が戦国武将の美意識であり、自己主張なら、様々なクリエイターが素材やデザインにこだわる現代のTシャツも自己表現の一つ。それならTシャツの中に変わり兜のデザインを取り入れていくことも可能である。また、もし現代に戦国武将たちがよみがえったら、自らの美意識で今の様々な素材やデザインを取り入れていくに違いない、とプロデューサーの田中氏は語る。
 現在、「天下『布』武プロジェクト」を推進中。
[→より詳しい記事を見たい方はこちら]
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2008/2/27


久留里城(雨城) Kururi-jou(U-jou) 

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 久留里城(くるりじょう)は、千葉県君津市久留里内山にあった城である。築城の時に3日に一度雨が降り続いたなどと言われ、雨城(うじょう)とも呼ばれている。
 古久留里城は、伝承では平将門の三男・東少輔頼胤(とうのしょうゆうよりたね)が浦田妙見に参詣の際、夢の中でのお告げにより築城した、と言われている。
 実際には、康正年間(1455~1456)に、上総武田氏の祖、武田信長が築いたとされている。
 天文四(1535)年、里見義堯(さとみよしたか)はこの地を本拠とし、改めて古久留里城の下に久留里城を築いた。
 戦国時代は度々北条氏を迎え撃ったが、江戸時代に入って次々城主が入れ替わり、城域は山麓に広げられて近世城郭となった。
 現在は城山公園として整備されており、模擬天守が土壇の天守台脇に建造されている。
 久留里城は、久留里藩の居城として親しまれた城である。
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2008/2/14


姫次 Himetsugi Mt. Himetsugi

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 姫次(ひめつぎ)は、神奈川県相模原市にそびえる標高1433mの山である。丹沢大山国定公園に属している。
 津久井町の青野原から焼山(やけやま)、黍殻山(きびがらやま)を経て犬越路(いぬこえじ)へ抜ける東海自然歩道のルート上にあり、姫次はその最高地点となっている。
 名前の由来は、天目山の戦いに敗れた武田勢の小山田八左衛門の娘である折花姫が、信長・家康連合軍に追われ、「もはやこれまで」と持っていた短刀で自分ののどを突いて自害した地がここで、以来「姫突き」と呼ばれたからと伝わる。
 山頂からは、晴れていれば富士山が見え、宮ヶ瀬湖が見渡せて爽快である。
 また、かながわの美林50選に選ばれているカラマツ林があり、新縁から紅葉まで訪れる者の目を楽しませてくれる。
 姫次は、明るく開けた素晴らしい展望を誇る山である。
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2007/11/28


新海三社神社 三重塔 Shinkai-sansha-jinja Sanjuu-no-tou 

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 長野県佐久市にある新海三社神社(しんかいさんしゃじんじゃ)は、古くより佐久三庄三十六郷の総社であり、武神として源氏の崇敬厚く、武田信玄ゆかりの神社としても知られている。永禄八(1565)年の上州箕輪城攻略の際に、信玄が奉納した戦勝祈願の願文が残されている。
 この神社の広大な境内にある三重塔は、新海三社神社の神宮寺の塔として、永正一二(1515)年に建立されたと伝えられ、国の重要文化財に指定されている。
 塔の一番下の屋根を支える垂木は、扇状に木を張った禅宗様、二段目、三段目の屋根の垂木はまっすぐに木を張った和様の建築様式が用いられており、初重と二、三重の垂木の方向が違っている。禅宗様、和様と両方の建築様式が取り入られ、近世の様式の折衷化の兆しが伺える
 明治維新の廃仏毀釈の際に、それまで神社にあった多くの仏教施設は破却の難にあったが、幸いにもこの塔は、神社の宝庫としてその難をまぬがれ、今も美しい姿を残している。
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