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鶴丸城(つるまるじょう)は鹿児島城の別名で、鶴が翼を広げたような城の形状であったことから名づけられた。
慶長七(1602)年、初代薩摩藩主・島津家久により「城をもって守りとせず、人をもって守りとなす」という兵学精神に基づいて築城された。
一般的に城の中心として重視される天守閣・天主台を据えず、本丸大手口に櫓門を設け、塁状には長屋造りの武器倉庫である多聞櫓(たもんやぐら)、一層の屋根を持つ平櫓を備えた屋形造りの建物となった。
天守閣の無い城としては伊達政宗生誕の城で有名な山形県の米沢城の二例のみである。
この鶴丸城を守るのは薩摩藩独特の外城制度である。県下一一三箇所に武家屋敷などの外城があり、武士を藩に散らばらせ、強靭な教育を行い軍力を強固にし、人の手で藩を守ろうとした。
鶴丸城はおよそ二六〇年間に渡り島津氏の統治所となったが、明治六(1873)年の火災により焼失。現在は、石垣と擬宝珠付きの石橋が残っている。
慶長七(1602)年、初代薩摩藩主・島津家久により「城をもって守りとせず、人をもって守りとなす」という兵学精神に基づいて築城された。
一般的に城の中心として重視される天守閣・天主台を据えず、本丸大手口に櫓門を設け、塁状には長屋造りの武器倉庫である多聞櫓(たもんやぐら)、一層の屋根を持つ平櫓を備えた屋形造りの建物となった。
天守閣の無い城としては伊達政宗生誕の城で有名な山形県の米沢城の二例のみである。
この鶴丸城を守るのは薩摩藩独特の外城制度である。県下一一三箇所に武家屋敷などの外城があり、武士を藩に散らばらせ、強靭な教育を行い軍力を強固にし、人の手で藩を守ろうとした。
鶴丸城はおよそ二六〇年間に渡り島津氏の統治所となったが、明治六(1873)年の火災により焼失。現在は、石垣と擬宝珠付きの石橋が残っている。
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