NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/9/19


高野純一 Takano Junichi Junichi Takano

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 創業、天保元(1830)年の「白木屋中村伝兵衛商店」の七代目中村悟氏を支えて店長を務める。
 江戸の京橋を流れていた京橋川。
 高速道路となったその河岸は昔「竹河岸」といい一日5、6万本の竹が水揚げされ、あらゆる生活品の材料が集まる場所であった。
 白木屋は初代藤兵衛が竹とホウキモロコシを使って箒を作り始めて以来、ずっと変わらずこの地で「江戸箒」を作りつづけている。
 高野氏と箒とのきっかけは、配達のアルバイトであった。初めて触れた江戸箒の「用の美」そして職人高木清一氏の仕事。それに惚れ込み、今では店を担っていく重要な人材となっている。
 「箒」には、使い捨ての関係にはない時間の流れがある。職人は使う場面を追求して箒に軽さとコシと柔らかさを実現させ、使い手は家を清める道具として畳から外へと順に下ろしながら箒と相棒になっていく。人と道具との関係性が、職人から使い手に受け継がれ、育まれていくのだ。
 材料、技、人。作り手として人と道具の関係を次世代に繋ぐため、ひとつひとつ行動し続けている。
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2008/8/26


下半田 業葉神社の祭礼 Shimo-handa Nariha-jinja-no-sairei 

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 愛知県半田市下半田(しもはんだ)の業葉(なりは)神社では、毎年4月中旬の土日に祭礼が行われる。
 業葉神社は、古来より八幡宮と尊称していたが、天保八(1837)年、古書により神名帳にある業葉天神である事が判明し、改称した。祭神は、仲哀天皇他6柱。
 祭礼では朝、業葉神社に曳き出された4台の山車が、神楽終了後、各町内を曳き廻され、夕方、一旦神社境内に集合して夜を待つ。
 夜7時頃になると、山車は上山を高く掲げ提灯をともす。その数は1輌に約200個といわれ、山車が闇の世界に蘇ったようになる。
 点灯が終わると三番叟、糸からくり人形による太平楽の舞、采振り、巫女舞を奉納し、再び夜の町内に曳き出される。
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2008/7/17


津軽凧絵 Tugaru-Takoe 

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 津軽凧絵(つがるたこえ)は、青森県弘前市を始めとした津軽地方に伝わる伝統民芸品である。日本三代凧のひとつとされている。
 天保年間(1830~1843)、津軽藩の城下町弘前の空には、いくつもの凧が揚げられていたことが記録されている。
 津軽凧絵は日本画に始まるが、中央の文化が導入され、この地で育くまれる事により味付けが変わり、郷土の民画となっていったという。
 凧絵が武者中心になったのは明治以降の事で、その画風は葛飾北斎の影響を強く受けているといわれている。凧絵を確立したのは柴田某で、小田桐岩蔵によって完成された。
 津軽凧絵は、津軽特産のヒバ材を使用した骨組に、浮世絵や三国志、水滸伝などの挿絵をもとにした武者絵を特徴としている。
 津軽凧絵は、畳二丈ほどもある凧に描かれた武将絵も勇ましい、郷土の伝統民芸品である。
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2008/7/15


唐棧織 Touzan-ori 

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 唐棧織(とうざんおり)とは、細い木綿糸を用いて独特の縦縞を織り出した布で、千葉県指定伝統的工芸品である。
 原産地はインドのサントメ地方とされ、日本には一六世紀末、安土桃山時代にもたらされたといわれている。
 ヤマモモやビンロウジュ、ハンノミなどの植物染料を用いることに特色を持ち、染料作りから原糸染め、織りに至る全工程のほとんどが一人で行われる。
 細い糸でかたく織られているために麻状の外観に絹のつやと風合いをまとい、細かい縞柄は江戸庶民好みの渋く、粋な美しさを表しているとして江戸時代半ばから末期にかけて大流行したという。
 特に、贅沢を戒めた天保の改革で絹織物の着用が禁止されたため、その絹に代わる織物として、好まれたといわれている。
 染料の調合には、材料を混ぜ合わせるだけでなく、最終的には味覚で決定されるという独特の技法を持っており、今日に至るまでそれは「秘伝」として脈々と受け継がれている。
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2008/7/2


稲荷鬼王神社 Inari-kiou-jinja 

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 稲荷鬼王神社(いなりきおうじんじゃ)は、東京都新宿区歌舞伎町の北端に位置する。江戸時代、ここは大久保村と呼ばれ承応二(1653)年に、村の聖地であったこの聖地に氏神として稲荷神社が創建された。また宝暦二(1752)年には、村の百姓・田中清右衛門が紀州熊野から鬼王権現を勧請し、天保二(1831)年に稲荷神社と合祀して稲荷鬼王神社となった。
 祭神は、宇賀能御魂命(うがのみたまのみこと)と鬼王権現である月夜見命(つきよみのみこと)、大物生命(おおものぬしのみこと)、天手力男命(あめのたじからおのみこと)である。
 神力を象徴する鬼は、全ての災禍を祓うとされ、武士から商人まで沢山の参拝客で賑わった。湿疹・腫れ物などの平癒祈願のために豆腐を供えたり、熱病、子供の夜泣きを鎮める「鬼の石像」や、運が帰ってくる「かえる石」など、様々なご利益があるとされ、今も地元の人々に親しまれている。
 毎年二月三日の節分祭りの他、毎年九月一八日の例大祭には鬼面の彫られた珍しい神輿が練り歩く。
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2008/7/1


身曾岐神社 Misogi-jinja 

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 身曾岐神社(みそぎじんじゃ)は、山梨県北杜市小淵沢町にある神社である。祭神は天照太神(あまてらすおおかみ)。
 身曾岐神社の身曾岐とは、「身を清める」「きれい」になることを意味するという。
 天保五(1834)年、医者である井上正鐵(いのうえまさかね)は国家の祭祀を司る官庁・神祇官白川伯王家に入門し、古神道を開眼したとされる。
 明治一二(1879)年に、井上の高弟・坂田鐡安が東京の東上野に井上正鐵を祭り「井上神社」の建立をし、昭和四九(1974)年に火事で焼失。後の昭和六一(1986)年に、現在の山梨へ遷座するとともに、名称を「身曾岐神社」に改めたとされる。
 約34000平方mもある広大な敷地に、明神造りの本殿、古神道の神学「神は火水なり」を具現化した火祥・水祥の両殿、神池に浮かぶ舞台能などが建っている。
 特に、池の上に浮かぶ能楽殿は日本随一の能舞台と言われ、年1回の演能には一流の演者が立つという。身曾岐神社は、古神道の精神と秘儀を受け継ぐ神社である。
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2008/6/12


蚕の社 Kaiko-no-yashiro Kaiko no Mori

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 京都府は太秦にある蚕の杜(かいこのもり)は、正式名称を木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)といい、木の嶋神社(このしまじんじゃ)と呼ばれ、親しまれている。
 いわれは古く、推古一二(604)年の創建とされている。渡来人の秦氏(はたし)が養蚕と織物の神を祀ったのがはじまりといわれており、摂社である養蚕神社(こがいじんじゃ)が名前の由来とされている。幾たびの戦火に伴い社殿は焼失、現在の社殿は明治以降に再建されたものだという。
 社殿の西側に元糺の池(もとただすのいけ)という湧水池がある。その池の中央に、三柱鳥居(みはしらとりい)と呼ばれる、京都三鳥居の一つとされる珍しい鳥居がある。柱が三本あり、上から見ると三角形をなし、中央には組石で神座(かみぐら)が作られている。起源は不明だが、現存のものは天保二(1831)年に再建されたものだといわれている。
 蚕の杜は、現在でも製糸機織業者の信仰が篤く、町の氏神様としても親しまれている。
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2008/5/12


宮津弁天岬 Miyatsu-benten-misaki Cape Miyatsu Benten

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 北海道の南西の日本海に浮かぶ奥尻島。この島の岬は古くから島の人々が祈りを捧げてきた神聖な地である。弁天宮を祀る宮津弁天岬(みやつべんてんみさき)もその一つ。島の東側を北上して行くと、社をのせた岬が右手に見えてくる。
 天保二(1831)年、漁民がニシンの大漁祈願のため、弁天岬にあった番所に弁天様を奉納したことが弁天宮のはじまり。大正二(1927)年に、社殿として改築された。
 弁天岬からの眺めは雄大で、遠くの対岸に北海道本土を見ることができる。また、海の底が見えるほど綺麗な海に囲まれ、一種神秘的な静けさに包まれている。北の弁天様は、今も昔も変わらず、この地の人々の営みをじっと見守り続けている。
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