NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/9/19


山口源兵衛 Yamaguchi Genbee Genbee Yamaguchi

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 昭和五六(1981)年、元文三(1738)年創業の京都の老舗帯問屋『誉田屋源兵衛』十代目を襲名し、帯作りに専念。近年は、着物も手がける。日本原種の繭「小石丸」の復活やフィリピンのドリームウィーバーの保存など、染織技術の活性化に努める。2003年、日本文化大賞受賞。建築家の隅研吾氏やデザイナーのコシノヒロコ氏とのコラボレーションに続き、今年春には、セレクトショップのユナイテッドアローズと組み「傾奇者達之系譜」を発表。血沸き、肉躍る、男の着物である。
 ワイルドで派手好きな桃山の男達。桃山時代、日本の男たちは「世界一タフ」と尊敬されていた。その血の記憶が覚醒した男気とロックンロールの風情。そこには「婆娑羅」「傾奇」「粋」と、日本に連綿と続く傾奇者のDNAが宿っている。傾奇とは、歌舞伎、傾(かたぶ)くことである。
 「型をやり通したら、パッと自分の底が開ける瞬間が来る。世阿弥が言うように、型を追い続けることが自由への最短の道なんや」
 旺盛な生命力も艶やかさも、その「深み」あればこそなのだ。
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2008/9/5


羽田のお山がけ Hada-no-oyama-gake 

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 羽田のお山がけ(はだのおやまがけ)は、宮城県気仙沼市に古くから伝わる伝統行事である。
 七歳になった男児が上羽田地内にある羽田山に登拝し、無事の成長を祈願するもので、毎年の旧暦八月十五日と十六日に行われる。
 お山がけは、昔から「親子お山をかけるな」といわれており、登拝に付き添うのは男児の父親ではなく、祖父や親戚の男性が務めることになっている。
 お山がけを無事に済ませると、男児を中心に親戚や近所の人々を招いてオフルマイ(お振舞い)を行い、お山がけが無事済んだことを披露し、行事は終了する。
 このお山がけをしないものは一人前の男とみなされず、港町気仙沼らしく沖のりもさせられないという地区もあるほどである。子供の成長過程において、必ず経験しなければならない通過儀礼と考えられており、現在も盛んに行われている。
 七歳の子供にとっては、その頂までの道のりは険しいものかもしれない。しかし、そこには子供が一人前になるための過程が濃いまでに凝縮されている。
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2007/12/26


文楽 Bunraku 

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 文楽(ぶんらく)は、日本の伝統芸能である人形劇、人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)を示している。
 人形浄瑠璃は室町時代に生まれ、一七世紀、江戸町民文化が花開いた元禄時代に大成した。のち一九世紀初旬になると植村文楽軒が大阪に人形浄瑠璃の小屋を建て人気を復興し、人形浄瑠璃と文楽が同じ意味として使われるようになった。その後全国へ伝播されていき、現在も各地方で雅やかな形態のまま伝承されている。
 文楽は男性によって演じられ、浄瑠璃語り役の太夫(たゆう)、三味線の音色、人形の動きの絶妙な三位一体の演芸で成り立っている。
 語りと音色の絶妙な間の取り方、人間の役者以上に優雅で人情味豊かなしぐさをする人形の演技、長い年月で洗練されたストーリーなどで観客を魅了する。
 高度な古典芸能であり、平成一五(2003)年に世界無形遺産に指定されている。
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2007/11/12


烏帽子 Eboshi 

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 烏帽子(えぼし)とは、平安時代から近代にかけて被られた、長くて黒い帽子の事である。
 古代の帽子で、平安時代には公家は円筒状の立烏帽子、武家は少し先が折れた折烏帽子を着用した。
 冠から派生していると考えられ、文字どおり烏の羽根のように黒い漆が塗布されている。
 平安時代以降になると、身分の貴賤にかかわらず成人男性が被った帽子を指し、被り物をしていない頭を人前に晒す事は恥辱とされていた。
 当初は布で作られていたが、15世紀頃より紙に漆を馴染ませて強度を持たせた紙製の烏帽子が出現し、江戸期にかけて一般化するとともに、烏帽子の大型化に伴って頭頂を剃り上げる月代(さかやき)が普及し、一般民衆に烏帽子を被らない事が定着していった。
 烏帽子は、中世日本の成人男子にとって、基本となる服飾である。
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2007/11/9


雪駄 Setta 

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 雪駄(せった)は、日本の伝統的履物である。
 畳表の草履の裏底に牛革を貼って防水機能をつけたもので、かかとにつけた皮の部分には金属製の鋲が打ち込まれている。
 雪の日の茶会で露地入りするのに千利休(せんのりきゅう)が開発したという説や、利休と交流のあった茶人・丿貫(へちかん)の創始とも言われている。
 歩くとかかとの金具がチャラチャラと鳴り、「雪駄ちゃらちゃら」と言われ、粋とされた。
 江戸時代には主に茶人や風流人、江戸町奉行所の同心が用いるものとされたが、現代では男性が着物を着る場合に用いられている。
 鼻緒にちょっと指の先をひっかける程度で、後ろはかかとがはみ出すようにして履くのが粋な履き方とされている。
 雪駄は、風流で高級な草履とも言える伝統的履物である。
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相撲 Sumou 

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 相撲(すもう)は、日本に古来から伝わる武道・格闘技であり、現在はスポーツとして世界的にも知られている国技である。
 その起源は「古事記」や「日本書紀」に登場するほど古く、神話として扱われている。平安時代には宗教文化色が増し、神事として扱われるようになった。
 やがて武芸となり、江戸時代には芸能として成り立ち、現在は大相撲として全国を興行している。
 競技としては、腰にまわしを巻いた裸の2人が土俵上で取り組み、相手を押したり、ついたり、投げたりしながら、倒すか土俵の外に出す事で勝敗を決める。
 力士は頭にまげをゆい、審判役の行司は1400年頃の侍と同じ服装をしている。力士が取り組み前に土俵で塩をまくのは、神聖な土俵を清める為とされる。
 また、力士には番付があり、かつては大関が最高位だったが、明治以降は実績と品格により最高位・横綱が与えられるようになった。
 相撲は、古より伝わる神事であり、日本の伝統文化である。
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2007/10/19


あまはげ Amahage Amahage

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 「あまはげは、全国的に有名な、秋田県男鹿の「なまはげ」と似た行事で、秋田県にかほ市金浦赤石地区や山形県飽海郡遊佐町吹浦女鹿地区に伝わる伝統行事である。
 秋田県の赤石地区に伝わる「あまはげ」は、250年以上前から、毎年一月中旬の小正月に行われている無病息災、家内安全を祈願する子供の行事。
 小学高学年の2人の男の子が顔を真っ黒に塗り、体にはワラの衣を着けて太鼓や鐘を打ち鳴らし、歌いながら家々を回る。家に入ると、あまはげが神仏の前で15回飛び跳ねてお祓いをする。銭なら五文、酒なら一升、いい餅よこせとねだる。
 山形県女鹿地区に伝わる「あまはげ」は、正月三日に行なわれ、怠けることを諫め勤労を奨励する行事で、「あまはげ」は新年にあたっての災いを取り除き、幸福を招く神々の使いとされている。男鹿のなまはげと違ってお面もどことなく優しい感じで、全部違う面構えをしている。こちらの「あまはげ」は国指定重要無形民俗文化財である。
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2007/9/13


細島港まつり Hoso-shima-minato-matsuri Hososhima Harbor Festival

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 細島港まつり(ほそしまみなとまつり)は、毎年七月下旬の金・土・日曜日、細島商業港周辺で行われる細島八幡宮の夏祭りである。
 明治二二(1889)年に全国で町村制が敷かれ、細島は宮崎、都城、延岡、油津とともに町となった。このことを記念し、交流の深い関西からこの祭りをもってきたといわれている。
 太鼓台をぶつけ合う男の祭りとして知られ、関西のだんじりと同じく喧嘩祭りとして勇壮な姿をみせる。祭りの夜、二台の太鼓台の激しいぶつかり合いにより、盛り上がりは最高潮に達する。
 細島八幡宮のご神体をのせた神輿が、はためく極彩色の大漁旗に守られ海上を駆け巡る神輿海上渡御(みこしかいじょうとぎょ)も行われ、航海安全と大漁を祈願する祭として大きな賑わいを見せる三日間である。
 
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