NIPPON Kichi - 日本吉

記事数15件: 1~8 件表示     >>     >|  

2008/4/3


小烏丸 Kogarasumaru 

Jp

 小烏丸(こがらすまる)とは、天皇家の宝刀である。
 ある日、桓武天皇の元に伊勢神宮からの使いであると、一羽の大きな烏(からす)が舞い降り大刀を授けられた、との伝説からこの名が付けられたと言われる。
 この刀を打ったのは天宝時代の大和の刀鍛冶、天国(あまくに)であるとされている。
 平安時代末期、平貞盛が平将門・藤原純友らの起こした反乱、承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)を鎮圧する際に、天皇よりこの刀を拝領、以後、平家一門の家宝となっていたが、壇ノ浦の戦いで一度行方不明となる。しかし、江戸時代に入り小烏丸の所在がわかり、現在では皇室御物として保管されている。
 刀剣としての特徴は、刀身の先端から半分以上が両刃となり、斬ることよりも突くことに適した刀で、鋒両刃造(きっさきもろはづくり)または小烏造と呼ばれている。ミステリーの多い、神秘的な刀である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/2/27


久留里城(雨城) Kururi-jou(U-jou) 

Jp

 久留里城(くるりじょう)は、千葉県君津市久留里内山にあった城である。築城の時に3日に一度雨が降り続いたなどと言われ、雨城(うじょう)とも呼ばれている。
 古久留里城は、伝承では平将門の三男・東少輔頼胤(とうのしょうゆうよりたね)が浦田妙見に参詣の際、夢の中でのお告げにより築城した、と言われている。
 実際には、康正年間(1455~1456)に、上総武田氏の祖、武田信長が築いたとされている。
 天文四(1535)年、里見義堯(さとみよしたか)はこの地を本拠とし、改めて古久留里城の下に久留里城を築いた。
 戦国時代は度々北条氏を迎え撃ったが、江戸時代に入って次々城主が入れ替わり、城域は山麓に広げられて近世城郭となった。
 現在は城山公園として整備されており、模擬天守が土壇の天守台脇に建造されている。
 久留里城は、久留里藩の居城として親しまれた城である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/12/28


棚沢獅子舞 Tanazawa-shishi-mai 

Jp

 獅子舞は奥多摩地方に古くから多くの地域に伝承されている伝統芸能である。棚沢獅子舞(たなざわししまい)は毎年八月、熊野神社の祭礼に奉納されるものである。
 時期は定かでないが、文政年間(1819~1829)に、奥氷川神社の獅子舞から伝わったものが始まりといわれている。
 祭礼当日は早朝より、村内の拝所巡りが行われる。まず熊野神社で社殿を七周する「宮詣り」が奉納された後、山の神、愛宕神社、獅子宿、将門神社、不動堂、正法院などの舞を各地で披露し、熊野神社に戻ってくるという。
 構成は三匹獅子に花笠四名、囃子方三名、笛方、唄方各数人名ずつとなっている。唐草模様の衣装を身につけた獅子舞達の、躍動感のある舞は、勇壮で美しいものである。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/12/11


青梅 天寧寺 Oume Tennei-ji 

Jp

 青梅市根ヶ布の天寧寺(てんねいじ)は、曹洞宗の寺院で、北陸の永平寺にならった回廊式の伽藍配置である。
 天慶年間(938~946)平将門によって開創された。後に兵火にあい、堂宇は焼失、廃寺となり、その後青梅周辺を治めていた勝沼城主・三田氏宗が、文亀年間(1501~1504)に開基した。江戸時代に入ると、末寺三七を数える大きな寺へと成長した。
 山門は宝暦九(1759)年の建築で、左右には二天像の多聞天と増長天の像がある。
 その山門を入って左側にある鐘楼の鐘は、大永元(1521)年、氏宗の子である政定が奉納した大梵鐘で、三田氏の貴重な金石文とされ、国の重要美術品として知られる。
 本堂は宝永四(1707)年に造られたもので、中央に祀ってある木造の釈迦如来坐像は、青梅市指定の有形文化財となっている。
 また、本堂の裏側には霞ヶ池があり、かわせみなどの楽園として知られる。この池が源となり霞川が始まり、入間川、荒川、そして東京湾に注がれている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/11/26


金剛寺の青梅 Kongou-ji-no-aoume 

Jp

 東京都青梅市にあり青梅山無量寿院と号する古刹、金剛寺。
 承平年間(931~938)に平将門により創建されたとされ、北条氏の信仰篤く、重要文化財に指定されている如意輪観音や風情ある枝垂桜でも知られる。
 その寺の境内にあるのが金剛寺の青梅(こんごうじのあおうめ)である。
 寺と同じくこの青梅も平将門の伝説に彩られている。
 その伝説によれば、将門が馬の鞭代わりに使用していた梅の枝をこの地に挿し、「我願成就あらば栄ふべし。しからずんば枯よかし」といって戦勝を祈願したのがこの青梅であるといわれ、「将門誓いの梅」とも呼ばれている。
 実が熟しても黄色に染まらず、青い実のまま落ちることから青梅と呼ばれるようになり、更にそれが青梅の知名になったとも言われており、いわば青梅市の象徴として愛され、大正十一年に東京都の天然記念物に指定されている。
 将門の夢が託されたその木は、一千年を経た今も、大地に根付いている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します




羽村 阿蘇神社 Hamura Aso-jinja 

Jp

 東京都羽村市内を流れる多摩川。
 その多摩川そばの崖上に佇む古社が、阿蘇神社(あそじんじゃ)である。
 その創建は西暦601年、推古天皇の御代に、推古天皇本人によるものとされる。また、承平三(933)年には平将門が社殿を造営したとも、その将門を討った藤原秀郷(ひでさと)が造営したとも言われている。その後は徳川家康が参詣し、続き家光、綱吉、吉宗など、徳川将軍家からの朱印状が続くこととなる。
 境内には藤原秀郷が手植えしたといわれる椎の大木があり、東京都の天然記念物に指定されている。
 その樹齢は八百年とも千年とも言われるが、樹勢は盛んで、将門伝説を今に伝えている。
 都の有形文化財に指定されている本殿は、一間社流造のこけら葺きの屋根など、神社建築として歴史的価値も高く、長い歴史と文化の歩みを感じさせる荘厳なものである。
 四季折々の風情豊かな地に鎮座する古社は、訪れる人々を悠久の歴史の旅へと誘ってくれるだろう。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します




あきる野 二宮神社 Akiruno Ninomiya-jinja 

Jp

 二宮神社は、東京、あきる野市二宮に鎮座する、國常立尊(くにとこたちのみこと)を祀神とした神社である。
 その創建年代は不明ながら、日本武尊が東征の折り、國常立尊を祀ったのが始まりといわれ、平安時代に編纂された延喜式神名帳にも登場する、古式ゆかしい神社である。
 また、藤原秀郷(ひでさと)が、平将門追討の折り、同社に戦勝祈願を行ったとも伝えられている。
 同社は多摩市の一の宮から始まり、横浜市の椙山神社を六の宮とする「武蔵六社宮」の二の宮にあたり、社号もこれに由来している。
 毎年九月八日から二日間、しょうが祭りが行われており、普段は静かな境内も「しょうがを食べれば風邪を引かない」という言い伝えの元、多くの参拝者で賑わいを見せる。
 境内には都内で最も古いといわれる、数学の問題を解いて奉納した算額が残されている。
 緑多い静かな境内で算額を前に、昔の人と知恵比べをしてみるのも面白いかもしれない。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/10/23


神田神社 Kanda-jinjya 

Jp

 神田神社(かんだじんじゃ)は、東京都千代田区外神田にある神社である。祭神は大己貴命、少彦名命、平将門命。別名・神田明神とも呼ばれている。
 天平二(730)年、武蔵国豊島郡芝崎村に入植した氏族が、大己貴命を祀ったのに始まる。
 承平五(935)年に敗死した平将門の首が京から持ち去られてこの近くに葬られ、首塚として東国の平氏武将の崇敬を受けた。
 嘉元年間(1303~1306)に疫病が流行し、これが将門の祟りであるとして供養が行われ、後に神田神社の祭神とされた。
 江戸時代、江戸城増築に伴って現在地に遷座し、江戸城の鬼門除け、江戸総鎮守として尊崇された。
 神田神社は、東京の中心である神田、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、築地など108町会の総氏神として、今も篤く慕われている神社である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



記事数15件: 1~8 件表示     >>     >|  
NIPPON Kichi - 日本吉 - 日本語に切り替える NIPPON Kichi - 日本吉 - to english

モノ・コト・ミル・ヒトで綴る
日本の美意識。

現在の記事 5444
カテゴリーズ
都道府県
キーワードシャッフル
お気に入り
キーワード検索
閲覧履歴



Linkclub NewsLetter