NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/6/11


桑名宿 Kuwana-juku Kuwana-juku

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 東海道を品川宿から数えて四十二番目の宿場に当る桑名宿(くわなじゅく)は、現在の三重県桑名市にあたる。「その手はくわな(桑名)の焼き蛤」と掛詞に残っているとおり、蛤が有名。
 桑名は宿場町として栄える以前から、物資の集積地、海運の中継港として栄えており、またお伊勢様として知られた伊勢神宮への参拝に向かう旅人にとっては、伊勢国への東の玄関口でもあった。
 桑名宿の一つ手前、名古屋の宮宿との間には木曽三川が流れており、越えることが大変難儀だったため、海上七里を船で渡る「七里の渡(わたし)」が設けられていた。歌川広重の東海道五十三次絵に「桑名 七里渡口」として描かれている。この航路は満潮時と干潮時で異なり、所要時間も一定していなかった。
 船着き場跡には伊勢神宮遙拝用の一の鳥居があり、伊勢神宮への参道を示す「伊勢国一の鳥居」とも呼ばれていた。この鳥居は今でも、伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられている。
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本陣 Hon-jin Honjin

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 本陣(ほんじん)とは、宿場の中でも大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などの貴人が使用した特別な宿舎のことであるが、本来は戦国期の戦場において大将のいる本営のことを指す名称であった。それがやがて武将の宿泊するところを言うようになり、前述のように宿場内における貴人専用の宿泊所を指すようになった。
 本陣を勤める者は、宿役人の問屋や村役人の名主などが兼ねていることが多く、その規模は千坪以上の屋敷地に御成門や上段の間などの格式を備えていた。本陣の主は武士ではないが、民間が禁止されていた名字帯刀を許され、門や玄関などを設けることが特権のようになっていたという。
 現在残っていて公開されている本陣は13カ所あり、中でも最大級の規模を誇っているのは、東海道五十三次のうちの第五十二之次である草津宿本陣で、敷地面積4727平米、建物面積1706平米、部屋数39を備え、国指定史跡となっている。
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四日市宿 Yokkaichi-juku Yokkaichi-juku

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 四日市宿(よっかいちじゅく)は三重県四日市にある、東海道五十三次の四三番目の宿場である。
 江戸以前から海陸交通での利用が多く、多くの人が集まったため商業が盛んで、毎月四日に定期的に市が行われるため「四日市」の名がついたとされる。
 また、伊勢神宮への参堂である伊勢街道への分岐点でもあり、伊勢まで海上十里で船で渡れる便もあった。
 永餅が有名で、藤堂高虎が「武運ながき餅を食うは幸先よし」と、足軽の頃に言ったとされている。
 現在、四日市市日永には、近辺で東海道で唯一残った松が生えており、当時の面影を知ることができる。
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石薬師宿 Ishiyakushi-juku Ishiyakushi-juku

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 石薬師宿(いしやくしじゅく)は、東海道五十三次のうちの第四十四之次であり、宿場の名は石薬師寺の名に因むという。
 1616年頃、四日市・亀山間に宿場がなく、旅人が難儀していたため、付近の村々から人家180軒を集めて宿立てしたのが始まりとされる。
 東海道・国道一号線とは言え、宿場は道一本はずれた旧道沿いにあるため、現在はひっそりとした静けさにつつまれている。
 宿立ての中心を担う本陣を勤めた小沢家には、宿場の関連文書も残っており、大岡越前守や忠臣蔵で有名な浅野内匠頭の資料も残されている。
 また近隣には「夏は来ぬ」の作詞で有名な佐佐木信綱の生家も保存されており、その南隣には立派な佐佐木信綱資料館がある。信綱の第1回文化勲章をはじめとする遺品、著書、書簡、原稿など2000点あまりが収蔵・展示されている。
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関宿 Seki-juku Seki-juku Post Town

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 関宿(せきじゅく)とは、その名の通り「関所の宿場」であったところ。ただしこれは、江戸時代の関所ではなく、六七二年の壬申の乱の時に鈴鹿の関として固められたものである。越前の愛発(あらち)、美濃の不破(ふわ)とともに古代日本三関と言われていたが、七八九年に廃止されている。
 中世の頃は関氏の所領として、地蔵院を中心に門前町から宿場町へと変化しながら栄えた。
 慶長六(1601)年、徳川幕府の宿駅制により、品川宿から数えて四七番目の宿場となったのが、現在の関宿、三重県亀山市関町木崎・中町・新所だ。ここは東海道五十三次の宿場の中で唯一往時の町並みを残しており、昭和五九年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されて以来、その保存と、歴史的な町並みの特性を活かした新しい町づくりに取り組んできている。
 街並は東から4つの地区に分けられ、家並みの低い町家が続く木崎、本陣・問屋・旅籠が集まる中町、地蔵院門前の新所、寺社が集まる北裏と、それぞれ特徴を持っている。
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2007/6/4


池鯉鮒宿 Chiryuu-juku Chiryuu-juku Post Town

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 池鯉鮒宿(ちりゅうじゅく)は江戸五街道の一つ、東海道の39番目の宿場で、現在の愛知県知立市にあたる。
 昔からこの宿場一体は知立という名であったものの、宿場にある知立神社内の池に鯉や鮒が多くいたことから、池鯉鮒という名が用いられるようになったといわれている。
 氏神である知立神社もその歴史は古く、社伝によれば日本武尊の父、景行天皇の時代にまでさかのぼるほどだ。
 次の宿である鳴海宿や間の宿である有松での木綿の絞りの需要の高まり、そして周辺都市へとつながる交通の要所であったこともあり、数百頭の馬が集められる大規模な馬市なども開かれた。この馬市の様子は安藤広重の名作「東海道五十三次」にも「首夏馬市」として書かれている。
 関が原での合戦前まではのどかな農村であった池鯉鮒も、宿場として制定されてからは大きく様変わりしていった。
 そんな数百年前の賑賑しさを感じながら、ぶらりと散策してみるのも面白いかもしれない。
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鳴海宿 Narumi-juku Narumi-juku

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 鳴海宿(なるみじゅく)は江戸の五街道の一つ、京と江戸を結ぶ東海道の宿場であり、今の愛知県名古屋市緑区鳴海町にあたる。
 有名な安藤広重の「東海道五十三次」という作品にあるように、東海道には53箇所の宿場があるが、鳴海宿は40番目になる。
 この手前の池鯉鮒宿との間(間の宿)の有松で生産されていた木綿の絞りが街道筋の人気商品になり、鳴海宿には商家が立ち並ぶようになって栄えた。
 東海道五十三次にも鳴海宿の絞りのことが書かれている。
 また、俳人である松尾芭蕉とも縁のある場所でもあり、この宿にある誓願寺には最も古い芭蕉の供養塔がある。
 この鳴海宿を抜けると、かの織田信長の名を一躍世に知らしめた桶狭間の古戦場が見えてくる。
 江戸からの距離およそ350km。次の宮宿までおよそ13km。
 木綿の絞りを羽織って、芭蕉のように古戦場で兵どもの夢の名残に思いを馳せて次の宿場へ向かう。旅の冥利に尽きる一幕が、そこにはある。
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2007/5/29


水口宿 Minakuchi-juku Minakuchi-juku

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 水口宿(みなくちじゅく)は、滋賀県甲賀市にあった東海道50番目の宿場である。
 中世から伊勢参宮街道の宿場町として開けていた水口は、江戸時代、加藤氏の城下町として整備され、石橋を境に、東側は道が三筋に分かれた「三筋の通り」の宿場町、西側は水口城の城下町で道が鍵の手になっていた。
 水口城は碧の掘の水に映る姿から別名「碧水城」と呼ばれる。特産品は広重の東海道五十三次にも描かれている「かんぴょう」「藤細工」「煙管」などである。
 古城山の南に街並が形成され「街道一の人とめ場」と呼ばれるほど栄え、にぎわったという。
 現在も町の随所に常夜燈や城跡など名所旧跡が残り、当時の面影を偲ぶことが出来る。
 水口宿は、室町時代に伊勢参宮の宿村として設けられたのが初めと言われる、古い宿場である。
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