NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/7/28


湛慶 Tankei 

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 湛慶(たんけい)は、鎌倉時代の仏師で、東大寺金剛力士像造仏で著名な仏師、運慶の嫡男である。
 承安三(1173)年~建長八(1256)年とされるが、没年には諸説ある。
 祖父の康慶が興した平安末期にはじまる仏師の一派「慶派」に属し、父である運慶や同じく仏師として知られる快慶と並ぶ大家として知られている。
 運慶工房の一員として、東大寺や興福寺の復興造像に携わり、運慶が没するまで、さながら父子二人三脚で隆盛を極めていくこととなる。
 父の没後は工房の後継者として活動し、生命感あふれるたくましい表現の「運慶様式」を引き継ぎつつ、さらに洗練された温和な作風の作品を生み出してその独自性を高めていくが、建長八(1256)年、東大寺講堂の復興造像における中尊千手観音像の造像半ばで没する。
 代表作としては、京都の妙法院・三十三間堂本尊の木造千手観音坐像や高知県の雪蹊寺にある木造毘沙門天及び両脇侍立像がある。
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2008/7/25


運慶 Unkei 

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 運慶(うんけい)は、平安時代末期~鎌倉時代初期に活動した仏師である。
 一二世紀半ば頃、奈良の名仏師・康慶(こうけい)の子として生まれた。
 平安中期以来造像の基準であった定朝様式の作風が固定したことに対し、鎌倉時代にその反省がおこり、運慶は父・康慶とともに定朝様式を受け継ぎながらそれを脱却、強く鋭い作風を築きあげていった。
 天才的な腕前を誇り、1180年代後半の一時期、鎌倉武士のために仏像を手がけ、貴族中心の平安の世から武士社会である鎌倉時代への変遷の中で、仏像も優雅端整なものから質実剛健なものが好まれる様になり、その流れに合って運慶派はもてはやされるようになったという。
 代表作として、東大寺南大門の金剛力士像、興福寺の諸像などが知られている。
 運慶は、慶派の中心的仏師として活躍した名仏師である。
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2008/7/24


快慶 Kaikei 

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 快慶(かいけい)は、鎌倉時代に活動した仏師である。
 生没年は未詳で、寿永二(1183)年に運慶(うんけい)が自ら発願し写経をした法華経の結縁者の一人として快慶の名が見える。
 運慶が没した貞応二(1223)年に、醍醐寺閻魔堂(だいごじえんまどう)の諸像の制作に従事している事から、ほぼ運慶と同年代に活躍した仏師で、運慶の父・康慶(こうけい)の弟子と考えられている。
 快慶は、熱心な浄土信仰の持ち主で、南無阿弥陀仏・俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)に帰依し、安阿弥陀仏(あんなみだぶつ)と名のった。
 快慶は慶派の様式を基礎としながらも、平安後期の様式や宋風を取り入れた新様式を生みだした。衣文線をきれいに整え、美しさを強調した来迎印の阿弥陀如来像を数多く作り、その作風は「安阿弥様」とよばれている。
 快慶は、運慶とともに鎌倉時代を代表する名仏師である。
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2008/5/26


深川閻魔堂 法乗院 Fukagawa-enmadou Houjou-in 

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 法乗院(ほうじょういん)は、東京都江東区深川にある真言宗豊山派の寺である。本尊は大日如来(だいにちにょらい)。
 江戸三閻魔のひとつで、御府内八十八ヶ所第74番札所とされ、通称・深川閻魔堂(ふかがわえんまどう)と呼ばれている。
 寛永六(1629)年、現在の東京都江東区である深川富吉町に創建され、寛永一八(1641)年に現在地へ移った。
 開山は覚誉憎正(かくよそうじょう)で、古くは閻魔王を本尊としたが、宝暦一〇(1760)年の類焼後、大日如来を本尊にした。
 境内の閻魔堂には、運慶(うんけい)作と伝わる閻魔像と十王像が安置されていたが、戦災で消失した。現在は、19ある特殊賽銭箱に賽銭を入れると、閻魔様の説法が聞ける日本一のハイテク閻魔様として知られている。
 深川閻魔堂・法乗院は、地元では「深川のおえんまさん」として慕われている寺である。
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2008/5/9


興福寺 北円堂 Koufuku-ji Hokuendou 

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 興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町にある法相宗大本山の寺院である。本尊は釈迦如来で、西国33箇所第9番、南都七大寺第2番、西国薬師霊場第4番札所とされている。
 天智天皇八(669)年、藤原鎌足夫人により創建、和銅三(710)年に藤原不比等によって現在地に移転、興福寺と改称された。
 北円堂(ほくえんどう)は、養老五(721)年、藤原不比等の一周忌として不比等の霊を慰めるため、元明上皇と元正天皇が長屋王に命じて建てさせた。
 現在の建物は承元二(1208)年頃に再建されたもので、興福寺に現存している建物の中では最も古い建物となる。
 堂内には、いずれも国宝である運慶一門が制作した鎌倉時代の本尊・弥勒如来像や、無著(むちゃく)・世親(せしん)菩薩像などを安置している。
 興福寺の北円堂は、華麗で力強く、優美な八角堂である。
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2008/3/6


東大寺 南大門(国宝) Toudai-ji Nandai-mon(Koku-hou) 

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 東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。本尊は盧舎那仏(るしゃなぶつ)。
 南大門(なんだいもん)は、天平宝宇六(762)年頃に建立されたが、その後倒壊と再建、焼失を経験し、現在残るものは鎌倉時代の正治元(1199)年に再建されたもので、国宝に指定されている。
 俊乗坊重源(しゅんじゅうぼうじゅうげん)が宋から伝えたといわれる、大仏様(だいぶつよう)方式で建築されており、上屋根と下屋根が異常に接近していて、直径1m、高さ24mの円柱が18本林立している。
 当時の和様技法では太い柱が必要であったが、大仏様の「貫」技法により、柱径を細くするだけでなく柱間隔も広げる事が出来た。
 門の左右にある金剛力士像は、建仁三(1203)年に運慶・快慶他によって作られた。
 東大寺の南大門は、東大寺大伽藍の正面に建つ雄大な正門である。
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南大門 金剛力士像 Nandai-mon Kongourikishi-zou 

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 東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。本尊は盧舎那仏(るしゃなぶつ)。
 南大門(なんだいもん)は、鎌倉時代の正治元(1199)年に再建された東大寺の正門で、国宝に指定されている。
 俊乗坊重源が宋から伝えたといわれる、純粋な大仏様(だいぶつよう)方式で建築されており、全国に2棟しか現存していない。
 金剛力士像(こんごうりきしぞう)は、建仁三(1203)年に運慶・快慶他によって作られた高さ8.4mの巨大な木像であり、同じく国宝に指定されている。
 剛健なる姿、筋肉の躍動感あふれる造形美を持ち、息を吐き、手を開く開放型の阿形(あぎょう)、息を吸い、指を結ぶ姿の吽形(うんぎょう)の一対からなり、南大門の門内左右に配置されている。
 南大門の金剛力士像は、威厳と豪放さを備えた木像である。
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2007/11/28


金戒光明寺 三重塔 Konkai-koumyou-ji Sanjuu-no-tou 

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 金戒光明寺三重塔(こんかいこうみょうじさんじゅうのとう)は、京都市左京区黒谷町にある浄土宗の大本山、京都の人々から黒谷(くろだに)さんと親しまれる金戒光明寺に建つ塔である。
 金戒光明寺は浄土宗の開祖である法然上人によって建てられた。
 境内には慶長一〇年(1605)年、豊臣秀頼により再建された阿弥陀堂を初め、歴史的にも由緒ある建築物や仏像が保管されている。
 また、春の桜、秋の紅葉、冬の雪景色など四季折々の風景が大変に美しく、鑑賞にひたれる場所でもある。
 三重塔は江戸時代初期 寛永一一(1634)年、徳川幕府二代将軍である徳川秀忠の菩提のために建てられたものであり、塔は擬宝珠高欄を付した縁をめぐらし、高さは22メートル。国の重要文化財に指定されている。三重塔の本尊である文殊菩薩と脇士の像は、鎌倉時代に活躍した有名な仏師、運慶の作といわれている。
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