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2008/9/1


興福寺 三重塔 Koufuku-ji Sanjuu-no-tou 

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 興福寺の三重塔は康治二(1143)年に創立されたものであるが、治承四(1180)年の大火で焼失し、その後鎌倉前期に再建されている。
 本瓦葺で高さは19.15メートル。「みかえりの塔」として有名な長野県の大法寺(だいほうじ)三重塔と同じく、一番下の軒である初重がやや大きく設計してあり、落ち着いたシルエットになっている。
 また、白壁と木組みのコントラストが印象的で、洗練された美しさだ。初層内部は四天柱を板壁で対角線方向に仕切り、千体仏を描いている。中央には窪弁才天像とその諸尊が祀られている。
 毎年七月七日に「弁才天祭り」が開催され、特別開扉される。昭和二七(1952)年に国宝に指定された。また、塔を含め興福寺は「古都奈良の文化財」の一部として、平成一〇(1998)年に世界遺産に登録されている。
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2008/7/28


湛慶 Tankei 

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 湛慶(たんけい)は、鎌倉時代の仏師で、東大寺金剛力士像造仏で著名な仏師、運慶の嫡男である。
 承安三(1173)年~建長八(1256)年とされるが、没年には諸説ある。
 祖父の康慶が興した平安末期にはじまる仏師の一派「慶派」に属し、父である運慶や同じく仏師として知られる快慶と並ぶ大家として知られている。
 運慶工房の一員として、東大寺や興福寺の復興造像に携わり、運慶が没するまで、さながら父子二人三脚で隆盛を極めていくこととなる。
 父の没後は工房の後継者として活動し、生命感あふれるたくましい表現の「運慶様式」を引き継ぎつつ、さらに洗練された温和な作風の作品を生み出してその独自性を高めていくが、建長八(1256)年、東大寺講堂の復興造像における中尊千手観音像の造像半ばで没する。
 代表作としては、京都の妙法院・三十三間堂本尊の木造千手観音坐像や高知県の雪蹊寺にある木造毘沙門天及び両脇侍立像がある。
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2008/7/25


運慶 Unkei 

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 運慶(うんけい)は、平安時代末期~鎌倉時代初期に活動した仏師である。
 一二世紀半ば頃、奈良の名仏師・康慶(こうけい)の子として生まれた。
 平安中期以来造像の基準であった定朝様式の作風が固定したことに対し、鎌倉時代にその反省がおこり、運慶は父・康慶とともに定朝様式を受け継ぎながらそれを脱却、強く鋭い作風を築きあげていった。
 天才的な腕前を誇り、1180年代後半の一時期、鎌倉武士のために仏像を手がけ、貴族中心の平安の世から武士社会である鎌倉時代への変遷の中で、仏像も優雅端整なものから質実剛健なものが好まれる様になり、その流れに合って運慶派はもてはやされるようになったという。
 代表作として、東大寺南大門の金剛力士像、興福寺の諸像などが知られている。
 運慶は、慶派の中心的仏師として活躍した名仏師である。
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2008/6/16


ならまち Naramachi Nara-machi

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 奈良県奈良市の市街地南に位置し、古い町家や寺院が集まる元興寺の旧境内界隈を「ならまち」と呼ぶ。奈良で一番古い町として、伝統建築群地域に指定されている。
 江戸時代末期から明治のならまちの面影を伝える町並みは、第二次世界大戦の戦火を免れたもので、風情ある建物があちらこちらに残されている。
 旧市街は平城京の外京にあたり、平城京のまちの構造をもとに、中世に新たに発達したまちであった。都が長岡京に移った後、平城京は荒廃したが、寺院はそのまま残された。東大寺や興福寺の辺りには、寺の仕事にたずさわる人々が住みつき、やがて郷(ごう)と呼ばれるまちをつくりあげた。
 懐かしい生活用具などを展示してある「奈良町資料館」や、間口は狭く奥行きの深い、伝統的な町屋を再現した「奈良市ならまち格子の家」など、今も当時の面影を残している。
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2008/5/15


薪能 Takigi-nou 

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 薪能(たきぎのう)は、室町文化の華といわれる「能」の一種で、主として夏場の夜間において能楽堂や野外に臨時に設置された能舞台の周囲にかがり火を焚き、そこで特に選ばれた演目を演じるものである。
 その起源は平安時代中期にまで遡り、奈良の興福寺で催された薪を奉納する神事が最初とされ、室町時代に入って「薪能」と呼ばれるようになった。
 現在の薪能は、復活した興福寺薪能を元に、昭和二五(1950)年に平安神宮で開催された京都薪能がルーツとされ、以降、主に自治体主催の夏の風物詩として、全国各地に広まっていったとされている。
 薪能においては、舞台設定は特に重要視される。屋外で行われることが多いことや照明は篝火のみということもあり、火の強さや、焚かれて浮かび上がる背景も舞台の一つとして捉えられ、周囲建造物なども借景として利用される。
 暗い静寂の中、篝火の灯下で繰り広げられる自然と能楽の調和は、見るものを幽玄の世界へと誘い出してくれるだろう。
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2008/5/9


興福寺 北円堂 Koufuku-ji Hokuendou 

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 興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町にある法相宗大本山の寺院である。本尊は釈迦如来で、西国33箇所第9番、南都七大寺第2番、西国薬師霊場第4番札所とされている。
 天智天皇八(669)年、藤原鎌足夫人により創建、和銅三(710)年に藤原不比等によって現在地に移転、興福寺と改称された。
 北円堂(ほくえんどう)は、養老五(721)年、藤原不比等の一周忌として不比等の霊を慰めるため、元明上皇と元正天皇が長屋王に命じて建てさせた。
 現在の建物は承元二(1208)年頃に再建されたもので、興福寺に現存している建物の中では最も古い建物となる。
 堂内には、いずれも国宝である運慶一門が制作した鎌倉時代の本尊・弥勒如来像や、無著(むちゃく)・世親(せしん)菩薩像などを安置している。
 興福寺の北円堂は、華麗で力強く、優美な八角堂である。
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興福寺 東金堂 Koufuku-ji Toukondou 

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 興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町にある法相宗大本山の寺院である。本尊は釈迦如来で、西国33箇所第9番、南都七大寺第2番、西国薬師霊場第4番札所とされている。
 天智天皇八(669)年、藤原鎌足夫人により創建、和銅三(710)年に藤原不比等によって現在地に移転、興福寺と改称された。
 東金堂(とうこんどう)は、神亀三(726)年、聖武天皇が元正太上天皇の病気平癒を祈願し、創建された。
 現在の建物は、焼失後の応永二二(1415)年に再建されたものであり、国宝に指定されている。
 堂内の本尊・薬師如来像、脇侍の日光・月光の両菩薩像は共に国の重要文化財に指定されており、文殊菩薩像、維摩居士像、十二神将像、四天王像はいずれも国宝に指定されている。
 興福寺の東金堂は、多くの宝物が収蔵されている建築物である。
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吉城園 Yoshikien 

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 吉城園(よしきえん)は、奈良県奈良市登大路町にある日本庭園である。
 奈良公園の入り口付近にある、興福寺の子院の摩尼珠院(まにしゅいん)の跡地に造られた杉苔が美しい庭園で、名勝・依水園(いすいえん)に隣接しており、奈良の名園の一つに数えられている。
 摩尼珠院跡地は明治になって民間の所有となり、大正八(1919)年に現在の建物と庭園が作られた後、奈良県の所有となり、平成元(1989)年に開園した。
 園内は池の庭、杉苔の庭、茶花の庭からなり、杉苔の庭には離れ茶室がある。
 春日山、若草山を借景に取り入れ、春は新緑、秋は紅葉が美しく、古都の四季に彩りを添えている。
 吉城園は、万葉集にも詠まれた宜寸川(よしきがわ)に隣接する、庭園鑑賞や茶会などを楽しめる美しい景勝地である。
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