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2008/5/14


井波城(瑞泉寺城) Inami-jou(zuisenji-jou) 

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 本願寺八代蓮如の次男である瑞泉寺(ずいぜんじ)三代蓮乗(れんじょう)が、本願寺を守り越中一向一揆の拠点とするべく、寺の旧地の周囲に土塁や外堀を築いて、城郭を構えたのが井波城(いなみじょう)の始まりである。築城は文明一六(1484)年の頃といわれている。
 天正九(1582)年、佐々成政(さっさなりまさ)によって陥落し、成政の家臣、前野小兵衛(まえのこへえ)が城として整備した。記録によると、阿弥陀堂跡を本丸、祖師堂跡を二の丸、太鼓堂を三の丸としたという。
 その四年後には前田利家によって落城したとされたが、間もなく廃城となったといわれている。
 城の遺構は現在もよく残されており、本丸跡には井波八幡神宮の社殿が建てられている。そこには瑞泉寺の名前の由来にもなった「臼浪水(きゅうろうすい)」という井戸もある。
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2007/11/16


【清】 Sei Clean, Pure, Clear

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 清は氵(さんずい)と青をあわせた字で、篆文(てんぶん)ではじめてみられます。文字学では部首は必ずしもいつも概念を示すものではないのですが、これは部首が示すとおり、 本来も水の清さをいいます。その意味の根本は「青」にあり、そしてこの色は漢字成立当時の美意識を表しています。青の下部の要素は丹で、丹(硫黄を含む土石で顔料となった)を掘るための井戸(丹井)のなかに丹があることを意味します。青色の丹もその井戸から採取されました。上部の要素は生であり青々と生えている草をあらわします。
 漢字を作り出したのは中国古代王朝の殷の聖職者ですが、その後の周と違って殷の民族は沿岸民族または沿海に近い地域の民族です。現代でも船乗りは入れ墨をすることがありますが、特に沿海の民族には入れ墨、文身などが多く、それは当時の宗教観を表現するものでした。
 青は「聖なる色」として儀式で清めのためにつかわれていました。青銅器という呪器の青も偶然ではありません。青と合わせて朱も呪鎮の意味をこめて使われました。文身や祭器に飾られた色には悪霊を払う呪禁の力が宿っているとされていました。漢字の世界は呪術の世界でもあるのです。
 フォン・ゲーテやショーペンハウアーなどの色彩論でもあきらかにされていますが、聖なる色としての青・朱は強く視覚にうったえることは確かです。中でも、青は特に穏やかな、鎮めと清めの効果のある、呪鎮に最もふさわしい色と考えられました。
 
■ 清・篆文(てんぶん)
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2007/11/15


金泉寺 Konsen-ji 

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 四国霊場第3番札所である金泉寺(こんせんじ)は、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開基したお寺で、当時は金光明寺と呼ばれていた。のちに弘法大師が訪れ、霊水が湧き出ているのを見て金泉寺と改めたとされる。
 今でも水が湧き出ており、この井戸を覗きこみ、影がはっきり映れば長寿、ぼやけていると短命という言い伝えが残されている。
 境内からは、天平・藤原時代の古瓦が多く発掘されているため、奈良時代の創建であることが推測される。その後長曽我部元親軍の兵火で伽藍を焼失したが、その後再興、現在の規模となった。
 朱塗りの仁王門をぐくると、左手に鐘楼、右手に八角形をした色鮮やかな朱塗りの観音堂がそびえ、 本堂の左側にある護摩堂の格天井には美しい花鳥が描かれており見所のひとつでもある。
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2007/11/14


越前大野 旧内山家 Echizen-oono Kyuu-Uchiyama-ke 

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 越前大野の旧内山家(きゅううちやまけ)は、福井県大野市城町にある建築物である。
 幕末に大野藩の藩政改革に尽力した家老・内山七郎右衛門良休(うちやましちろううえもんりょうきゅう)は、藩営の商店を開業したり、銅山経営で手腕を発揮して多額の借金に苦しんでいた藩財政を立て直した人物である。
 旧内山家は、良休と弟の隆佐良隆の屋敷を復元したもので、母屋は明治一五(1882)年ごろ建築された梁間4間、桁行7間の平入り2階建てとなっており、屋根は現在は瓦葺だが、元は板葺であったとされる。
 天井の空間を広く使うための2階の舟底天井や、井戸のある台所などが設けられた造りが興味深く、他に数奇屋風書院の離れや衣装蔵、米蔵、味噌蔵と広い庭が存在する。
 越前大野の旧内山家は、当時の武士の暮らしが伺える、貴重な武家屋敷である。
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2007/11/9


犬山 奥村邸 Inuyama Okumura-tei 

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 犬山の奥村邸(いぬやまのおくむらてい)は、愛知県犬山市犬山東古券にある建築物である。国の重要文化財に指定されている。
 天保一三(1842)年の犬山大火直後に建てられたといわれる呉服商・奥村氏の屋敷で、旧中仙道に面している。
 建物の様式は土蔵造りで、邸内には織田信長が喉を潤したと伝えられる銀名水という井戸や、市指定の有形文化財である今井窯の水指、蔵を改造した郷土民族館などがあり、当時の生活様式を伺う事ができる。
 現在はフレンチ創作料理屋として営業しており、旧奥村邸を改装したハイカラな雰囲気の中にも、オリジナルの邸宅の趣を色濃く残す、しっとりとした落ち着いた空間になっている。
 犬山の奥村邸は、江戸後期の生活様式を残す建築物である。
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2007/10/31


随心院 Zuishin-in 

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 随心院(ずいしんいん)は、正暦二(991)年、仁海僧正が牛皮山曼茶羅寺(ぎゅうひざんまんだらじ)を創建したのがはじまりである。
 鎌倉時代の寛喜元(1229)年、後堀河天皇から門跡の宣旨をうけ、随心院門跡となる。承久・応仁の乱により焼け野原になってしまうが、江戸時代の慶長四(1596)年、九条家と二条家の両宮家から門跡が入山され再興した。
 この周辺は、この地方の勢力者である小野一族の土地であった。隋心院境内は小町の旧跡と伝え、小町は現在の随心院にある「小町化粧の井戸」付近に住んでいたといわれている。
 総門をくぐると右に梅園がある。随心院の紅梅は「はねず」という薄紅色を意味する名で呼ばれている。三月下旬には百夜通いの話で有名な小野小町と深草少将(ふかくさのしょうしょう)の物語を主題とした「はねず踊り」が催される。小町に想いを寄せて通いつめた深草少将が、小町のところへ通い続けた九十九夜目の雪の日、門前で疲れきって倒れ、再起できなかったという話が伝えられている。
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2007/10/5


日振島 Hiburi-jima 

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 日振島(ひぶりじま)は、宇和島市の西方約28kmの沖合いに浮かぶ小島。全体が山の形をしており、屈曲の多い入江の美しさが格別で、釣りのメッカとして知られている。島では豪快な自然を満喫できるほか、中世の歴史探索も楽しめる。
 平安時代に「藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱」の舞台となった日振島には、純友も使用していたといわれる古井戸「みなかわの井戸」や、反乱の際に立てこもったとされる高さ約80mの小山・城が森(じょうがもり)の「純友の砦跡」などが残されている。
 島名は、その昔、闇夜に船が航路を見失った時、島民が振る松明の火を頼りに無事にこの島に辿り着いたことから「火振島」、これが転じて「日振島」になったという。
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2007/10/1


松平東照宮 Matsudaira-toushou-guu Toshogu Shrine in Matsudaira

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 徳川家康を祀る神社のことを「東照宮(とうしょうぐう)」といい、幕府によって建立された日光、久能山などをはじめ、徳川氏に臣従した大名家が競って各地に建立したため、一時は全国に五〇〇社を超える東照宮があったとされる。明治に入り廃社や合祀が相次ぐにつれ、その数は減っていき、現存するのは約一三〇社とされる。
 市街地から離れた山村、松平町にある松平東照宮(まつだいらとうしょうぐう)はその現存する社のひとつである。松平郷領主、松平親氏(ちかうじ)が祀られているという。親氏は信仰と慈悲の心が深かったといわれており、領内に菩提寺となる高月院を初めとした、多くの寺社仏閣を建立した人物である。
 大正時代まで松平家が住んだとされ、境内には屋敷跡や徳川家康産湯の古い井戸跡などの史跡がある。また、敷地全体が松平家の屋敷跡であるため、神社の周りの石垣や濠が、当時の趣を感じさせてくれる。
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