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2008/2/6


落柿舎 Rakushi-sha 

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 落柿舎(らくししゃ)は、京都嵯峨野の豊かな緑の中に佇む一軒の草庵である。
 江戸期の俳人であり、松尾芭蕉門下の「蕉門十哲」の一人でもあった向井去来(むかいきょらい)が閉居としていた庵で、貞享三(1686)年に造営された。
 落柿舎の名の由来は、庭に実った柿を売る契約を交わし、代金ももらったその翌日、台風で全て落ちてしまった出来事にあるという。
 元禄四(1691)年には芭蕉がこの庵に滞在、「嵯峨日記」を記したともいわれている。
 去来の没後は庵は荒廃し、元の場所も分からなくなっていたが、明和七(1770)年、京都の俳人であった井上重厚が、現在の地に再建した。
 嵯峨野に広がる山と、のどかな田園風景に溶け込むわら葺きの建物は、いつか見たような懐かしい風情を漂わせている。
 去来在宅を訪れる人に知らせていたといわれる蓑と笠が、今も土間の壁に掛けられている。
 庵に赴けば、入り口から見える蓑と笠。どうやら主人は在宅のようである。
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2008/1/30


薩摩川内市 トンボロ Satsuma-sendai-shi Tonboro 

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 海岸と島が近い場合、波の流れに相殺が起こり、間に波の静かな部分ができ漂砂が堆積することがある。それはやがて海岸と島を結ぶ砂州にまで成長し、そのまま陸続きとなる細長い低い地形をつくる。
 この現象を陸繋砂州(りくけいさす)、またはイタリア語で「沿岸流によって出来た陸地」という意味でトンボロと呼ばれる。
 鹿児島県薩摩川内(せんだい)市里村には北海道函館市、和歌山県串本町と共に日本三大トンボロと呼ばれる地形がある。南北に約1500メートルの長さで、最大幅1000メートル、最小幅250メートル、高さ2・3メートル。
 薩摩川内市のトンボロは、波の相互作用に加えて夏季の東南からの台風と冬季の北西からの季節風が訪れることにより砂の堆積がなされたものといわれている。
 このトンボロの上に里町の中心街が出来ており、静かな漁業地区となっている。
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2007/12/3


種間寺 Tanema-ji 

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 四国霊場第34番札所である種間寺(たねまじ)は、敏達天皇六年、仏師達が航海の安全を祈って薬師如来像を彫刻し、本尾山の頂に安置、その後無事帰国することができたことから始まるとされる。
 境内は広く、昭和四五(1970)年に台風の被害を受けたことから、鉄筋コンクリート製の本堂を再建。本堂の手前には、持仏堂、大師堂、観音堂が建っている。
 種間寺という名は、弘法大師が訪れた際、お堂を整え唐から持ち帰った米、麦、粟、きび、豆の五穀の種を蒔いたことが由来とされている。
 ご本尊は安産の薬師として信仰されており、妊婦は柄杓を持参して祈願し、それを自宅の床の間に飾り、無事安産であれば柄杓を寺に納める、という慣わしが伝わっている。
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2007/9/19


野間神社 Noma-jinja 

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 野間神社(のまじんじゃ)は、鹿児島県南さつま市笠沙町にある神社である。祭神は瓊々杵尊(ににぎのみこと)、木花咲姫尊、火須勢理尊、彦火々出見尊、火照尊。
 創始の年代は不明であるが、神社そのものは往古よりあったと伝えられ、瓊々杵尊を祀る日本最古の神社とされる。
 神社は元々標高591mの野間岳山頂にあり、東宮と西宮に分かれて野間権現と呼ばれていた。
 天文二三(1554)年、島津忠良が東宮を、永禄一〇(1567)年には西宮も再建した。
 文政一三(1830)年、台風によって社殿が崩壊したため、神社を山頂から八合目まで下ろし、島津斉興により東宮と西宮を統合して1つの社殿として、現在地に再建された。
 野間神社は、昔から崇敬され続けてきた古社である。
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2007/6/1


臥龍桜 Garyu-zakura Garyu Cherry Tree

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 「臥龍桜(がりゅうざくら)」は、曹洞宗・大幢寺(だいどうじ)の境内にあるエドヒガンザクラで、高さ20m、枝はりは南北に30m、東西に20mの齢1100年を越える老樹である。
 元々は「大幢寺の大桜」と呼ばれていたが、幹や枝の作り出す樹形が龍が地に臥している姿に似ている事から、寺の和尚であった道仙により1931年に「臥龍桜」と名付けられた。南側の枝が地面を這うように伸び、先端は立ち上がっている様は正しく龍の頭に見えるだろう。
 台風などで幾度も枯死の状態に陥っていた桜であったが、人々の想う心により、何度となく逞しく復活してきた。
 1973年に国の天然記念物に指定され、1989年には周辺が「臥龍公園」として整備された。毎年4月中旬から5月上旬に臥龍桜まつりが開かれる。
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2007/5/9


鳥取 大山滝 Tottori daisendaki The Daisen-daki Waterfall

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 鳥取県の大山山麓の地獄谷から流れ出る清流、加勢蛇川(かせいちがわ)。この川の上流に多くある滝のひとつに大山滝(だいせんだき)がある。「日本の滝百選」にも選定されている美しい滝だ。
 滝は2段で構成され、総落差43mを誇る。上段は28m、下段は15mである。かつては3段であったが、昭和九年の室戸台風で2段になったという。
 轟音とともに飛沫を上げて流れ落ちる様は圧巻のひと言。下段の滝は、裏にある洞からも見られるいわゆる「裏見の滝」。涼しげな水流が見事だ。周囲にはブナの原生林が続き、とりわけ秋の紅葉の時期は木々の色とのコントラストが美しい。中国自然歩道も整備されており、美しく彩られた自然の中で森林浴をたっぷり楽しむことができる。この歩道の途中にある「大山滝つり橋」から眼下に見下ろす加勢蛇川は絶景と評判だ。
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2007/4/26


立春 Rissyun 

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 立春とは二十四節気の一つで、この日から立夏の前日までが春にあたり、季節を分ける日である節分翌日の2月4日頃を指す。
 旧暦における春は一年の始まりであることから、この日を基準にした行事や言葉が多く存在する。
 歌に歌われる「八十八夜」はこの日からの数え日であり、霜が落ちず良質の茶葉をとる日の目安として使われている。
 二百十日、二百二十日も立春からの数え日で、台風の多い日とされ、農家の三厄日として数えられている。
 また、この日以降に吹く強い南風のことを「春一番」と呼び、以降春二番、三番と呼ぶ。
 いずれも季節への深い造詣や観察から生まれた言葉であり、自然が身近であったことを示す証でもある。
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2007/2/13


石垣 Ishigaki Stone Walls

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 国境などの境界線を定めるものや、城や砦を守る為に石を組み上げて作られた柵や壁で、城や砦の建物自体の基礎として用いられる事も多かった。石垣は、古来からあらゆる文明で見る事が出来る。手法も、自然のままの石を積み上げたものや割った石や切った石を美しく組み上げて見栄えを良くしたもの、様々な種類の石を組み合わせて力を分散させ、排水を良く堅固にしたものなどがある。
 日本では、城郭などの石垣の建設に、穴太衆(あのうしゅう)などの近江国の石工の集団が有名であり、彼らの組んだ石垣は町並みに美しい特徴を与えている。また、琉球諸島などの伝統的な村落で、台風の被害を防ぐ為に、屋根の上に石を積んだり、家の周りに石垣を積んだりという事が行われている。
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