NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/2/19


奥石神社 Oiso-jinja Oiso Shrine

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 奥石神社(おいそじんじゃ)の創建年は不明であり、もともと繖山(きぬがさやま)山頂の磐座(いわくら)を遠拝する祭祀場として営まれたものとされている。
 祭神は、藤原氏の祖である天津児屋根命(あまつこやねのみこと)である。
 日本神話によると、日本武尊(やまとたけるのみこと)が受けた海神の怒りを解くため、后である弟橘媛(おとたちばなひめのみこと)が海に身を投じた。
 このとき懐妊していた妃は、「自分は老蘇(おいそ)の森に留まって女人安産を守る」と言い残した。このことからこの神社は安産の神といわれて、広く信仰されている。
 老樹の茂る参道を進んでいくと、神域である老蘇の森が神社を護るように広がっている。
 本殿は三間社流造で重要文化財である。棟札より天正九(1581)年の建立とされている。
 境内の一隅には「夜半ならば老蘇の森の郭公今もなかまし忍び音のころ」という本居宣長(もとおりのりなが)の歌碑も立っている。
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2007/9/7


賀茂神社 Kamo-jinja Kamo Shrine in Sendai

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 仙台市泉区にある賀茂神社(かもじんじゃ)は、京都の本社と同じく下賀茂神社と上加茂神社の二社から形成されている。大鳥居から中の鳥居、玉垣内の二社の社殿すべてが朱塗りで、赤神様として親しまれている。
 社殿は七北田川が北に流れる台地に位置する。元禄八(1695)年、伊達藩四代藩主・伊達綱村が塩竃神社造営のとき、境内社だった糺の宮(ただすのみや)を現在地に移し、併せて上賀茂神社も建てられた。
 玉垣内には向かって右(東の宮)に下賀茂神社が、左(西の宮)には上賀茂神社が並び、南に面して建っている。神社に伝わる棟札によると、正式名は右が御祖神社(みおやじんじゃ)、左が別雷神社(わけいかづちじんじゃ)となる。また社殿の向拝(こうはい)にある蟇股(かえるまた)の彫刻は、下賀茂神社が雌鳥、上賀茂神社が雄鶏となっている。
 賀茂神社では初詣や、正月飾りを持ち寄り境内で焼き無病息災を祈る「どんと祭」の際、大きな賑わいをみせる。
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2007/8/20


真光寺 三重塔 Shinkou-ji Sanjuu-no-tou 

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 岡山県備前市にある高野山真言宗の寺院「真光寺(しんこうじ)」。真光寺は奈良時代の僧・行基(ぎょうき)によって建立されたといわれる。
 境内にある三重塔はその様式や絵様から、室町時代前半の建立とされている。また棟札によると邑久郡牛窓町の廃寺、蓮華頂寺(れんげちょうじ)にあったものを慶長一八(1613)年、当時の住職・勢恵聖人(せいえしょうにん)によって現在の場所に移されたという。
 国の重要文化財に指定された真光寺三重塔の高さは約一八・二四m。屋根は重々しい趣の本瓦葺きである。その四隅には立体的な鬼面の鬼瓦が飾られている。間斗束(けんとづか)に設けられた、蟇(かえる)が足を広げている様から名づけられた「蟇股(かえるまた)」には金剛界四仏を表す梵字が刻まれている。
 全体的な美しさを眺めるのも良いが、細部を見て回るのも一興である。
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2007/5/11


茂宇気神社 Mouke-jinja Mouke Shrine

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 茂宇気(もうけ)神社は、鳥取県鳥取市鹿野町にある茂宇気古刹。
 かつては妙見大権現(みょうけんだいごんげん)と呼ばれる地元の氏神だったが、元禄五(1692)年に茂宇気神社と改名。現在に至る。
 創立起源は不明だが、明応年中(1492)年と思われる棟札(棟上げのとき、工事の由緒・年月日・建築者・工匠などを記して、棟木に打ちつける札)が現存している。
 今では茂宇気(もうけ)の名前の語呂から、商売繁盛にご利益があると、商売繁盛の神様として信仰を集める。
 町から少し離れているうえ、105段という長い石段を登らなければならないにも関らず、全国から参詣者が絶えない。
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2007/4/23


奥家住宅 Okukejutaku 

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 奥家(おくけ)住宅は、江戸時代の建築としては珍しく、建築年代が明確にわかっている民家である。広島県三次市舎町に所在し、国の重要文化財に指定されている。
 奥家住宅は、かつて旧樫井村の庄屋であった奥家の住居跡で、江戸時代中期の天明八(1788)年の建築を示す「普請帳(ふしんちょう)」の記録と小屋裏の棟束(むねつか)に棟札が残る。主屋は六間に台所が付いた間取りで、規模の大きい当初の姿をそのままとどめた貴重な遺構であり、江戸後期以降広く普及した、大型六間取り遺構の典型的な例である。主屋の土間上にある五重に組まれた太い梁は見ごたえ十分。塀も美しく、これからもさらに後世に伝えていきたい歴史的価値のある史跡だ。
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2007/4/12


國前寺 Kokuzen-ji Kokuzenji Temple

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 國前寺は、広島駅の北側、二葉山のふもとにあり、古くは門前まで海岸が迫っていたと言う。
 南北朝時代初期の暦応三(1340)年、日蓮の弟子日像に師事した暁忍(ぎょうにん)が開いた。当時は寺の名前を暁忍寺と言った。
 寄棟造、二重屋根の堂々とした本堂は、残されていた棟札より寛文十一(1671)年の建築であることがわかっている。
 向拝を除いて、上下層とも組物は用いておらず、背面には、後ろに突き出たように仏間が取り付けられ、その屋根が寄棟造で錣葺(しころぶき・屋根の途中で区切りをつけ、段になっている屋根の葺き方)となっている外観が非常に特徴的である。
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2007/3/28


江川邸 Egawa-tei 

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 江川邸は静岡県伊豆の国市、韮山に位置する屋敷である。
 江川家が保元の乱で崇徳上皇側に味方して破れた後、この地に移り住んだ頃に立てられたとされ、約850年前の建築と言われる。
 途中幾度も建て直しが行なわれており、1261年には日蓮が訪れ、繁栄を祈願した棟札を送られた。
 江戸時代に入ってから、徳川家直轄領の代官屋敷として使われ、伊豆地方を支配、管理を行なった。現在、建物、敷地が国の重要文化財として指定されている。
 広大な敷地内に母屋を中心に書院、仏間、蔵が建ち並び、裏山には神社が建立されている。屋敷内には古文書や民具、武具が展示され、千年、四十代に及ぶ江川家の歴史が記されている。
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2007/3/20


鞆淵八幡宮神社 Tomobuchi-hachimanguu-jinjya 

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 鞆淵(ともぶち)八幡宮は、和歌山県龍門山南の、鞆淵応神山に鎮座する古刹。日本三大八幡宮のひとつ、京都の石清水八幡宮の荘園であったことで有名。平安時代に石清水八幡宮が勧請造築したものである。
 本殿は、棟札によると室町時代の寛正三(1462)年に再建されたもので、室町時代中期の建設様式をよくとどめている。
 記録によれば、社蔵の神輿は鞆淵八幡宮創建時に石清水八幡宮より贈られたもので、平安時代の作としては最高傑作と言われ、国宝にも指定されている。境内にある大日堂、本殿ともに重要文化財で、中世の神仏習合の形式が非常によく残されているという。
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