NIPPON Kichi - 日本吉

記事数88件: 1~8 件表示     >>     >|  

2008/12/5


吉見百穴 yoshimi-hyakuana 

Jp

 埼玉県の吉見町にある「吉見百穴(よしみひゃくあな)」とは、六世紀末から七世紀末、古墳時代の末期に造られた横穴墓の集合墳墓である。大正一二(1923)年に国の史跡に指定されている。
 凝灰岩砂岩の丘陵の側面に、無数の穴が開いている。凝灰岩砂岩は、掘削に適した岩盤であったことから、横穴墓が彫られたのではないかと考えられている。
 明治二〇(1887)年に発掘調査がおこなわれた時には、コロボックル人といわれる先住民族の住居跡ではないかという説があったが、大正時代末期になり、古墳時代末期の墓穴であることが判明した。
 現在確認できる横穴の数は、二一九基である。そのうち、国の天然記念物で緑色の光沢を放つ「ヒカリゴケ」が自生している横穴もある。
 また第二次世界大戦末期には、この岩山の地下に日本軍の旧軍需工場が造られ、その際に掘られた穴も残されている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/9/22


竹之内草庵 Takenouchi-souan 

Jp

 竹之内草庵(たけのうちそうあん)は、新潟県上越市五智の五智国分寺(ごちこくぶんじ)境内にある史跡である。
 五智国分寺は、天平一三(741)年に創建され、永禄五(1562)年、再建された天台宗の越後国分寺の通称で、本尊は大日、薬師、宝生、阿弥陀、釈迦の五如来で、五智如来と呼ばれている。
 承元元(1207)年、弾圧により、親鸞は越後の国に流罪となった。当時、越後国分寺住職は親鸞と友人であったので、境内の五仏のそばに草庵を結び、親鸞に住んでもらった。その草庵は竹林に囲まれていたので、竹之内草庵と呼ばれるようになったという。
 境内には草庵の跡を示す竹之内草庵跡石碑、親鸞が鏡ヶ池に写った姿を自ら刻んだと伝えられる親鸞聖人座像が安置された、親鸞堂が存在する。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します

keywords :



上総国分寺跡 Kazusa-kokubunji-ato 

Jp

 上総(かずさ)国分寺跡は、千葉県市原市惣社にある寺跡で、国の史跡に指定されている。
 国分寺は天平一三(741)年、聖武天皇の詔によって全国60余国に建立された国立寺院で、上総国分寺跡は寺域約13.9万平方mに及び、武蔵国分寺につぎ全国2番目の規模とされる。
 金堂・講堂・塔・中門・南大門・西門・回廊があり、飛鳥の大官大寺式伽藍配置をもつ。他に窯跡や寺を運営する付属施設が確認されている。現存しているものは国分寺・薬師堂・仁王門・将門塔で、高さ667mと推定される日本唯一の木造七重塔が建っていたと言われる。
 遺構からは鐙瓦(あぶみがわら)・文字瓦などが出土し、境内の文化財保存館に陳列されている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/9/12


蔵敷高札場 Zoushiki-kousatsu-jyou 

Jp

 蔵敷高札場(ぞうしきこうさつじょう)は、東京都東大和市蔵敷にある史跡である。都の旧跡に指定されている。
 江戸時代の上意下達(じょういかたつ)を張り出す高札場で、徳川幕府が法度や犯罪人の罪状など住民に知らせるために使われていたもの。お江戸日本橋をはじめ江戸には三五ヶ所あったといわれるが、明治時代になり、不要となると次々に取り壊され、多摩地区では府中とこの蔵敷の二ヶ所しか残っていない。
 旧青梅街道に面した旧名主内野家の門前に設けられたものだが、府中とは違って間口二米ほどの小さい場所となっている。ここに掛けられていた高札のいくつかは、今でも内野家に保管されている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/9/5


正法寺古墳 Shoubouji-kofun 

Jp

 正法寺(しょうぼうじ)古墳は、正法寺裏山にある西三河地方最大の前方後円墳で、全長が95メートルほどあり、保存状態がよい墳丘として知られる。昭和一一(1936)年に国の史跡に指定されている。
 三段に築かれた墳丘斜面には葺石(ふきいし)が敷き詰められ、各段には円筒埴輪が並べられていたようである。三河湾に面した構造であることや、整った形の古墳であることから、この古墳に葬られた人は畿内政権と関係の深い有力者だと推定される。出土品である円筒埴輪や墳丘の形態から、古墳時代の中期に築かれたものと考えられている。
 古墳周辺は現在、公園として整備されている。春には桜の名所として知られ、開花時期には多くのお花見客で賑わう。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/8/14


神之峰城跡 Kannomine-jo-ato 

Jp

 神之峰城(かんのみねじょう)は、戦国時代の竜東(現長野県飯田市)の雄・諏訪氏の流れを汲む知久頼元の居城だった城。
 下伊那に勢力を張った知久頼元は、諏訪氏滅亡後、武田信玄に従ったが、天文二三(1544)年、武田氏に反旗を翻したため、信玄の攻略を防ぐことかなわずに落城した。
 現在城跡は、市の史跡に指定されており、天龍小渋水系県立公園の一部となっている。山頂部にはテレビ塔が立てられているので、山頂まで車で登ることができる。そのNHKのテレビ塔が本丸跡である。城跡には久堅神社がひっそりと佇んでいる。展望台からの眺めは素晴らしく、飯田市街が一望できるという。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/6/26


苗木城(霞ヶ城) Naeki-jou(Kasumiga-jou) 

Jp

 苗木城(なえきじょう)は、標高四三三メートルある高森山に築かれた山城である。木曽川のすぐ北側に位置しており、川の南側には中山道、北側には飛騨路が通っており、交通の要衝にある。木曽川を天然の堀とし、突出した岩山を巧みに利用した城である。
 また、島崎藤村の「夜明け前」の舞台となった岩村城の支城として知られ、岩村城を「霧ヶ城」と呼ぶのに対し、苗木城は「霞ヶ城」と呼ばれている。
 この城は、天文元(1532)年、美濃岩村城主であった遠山景前(とおやまかげさき)の弟・遠山直廉(とおやまなおかど)が築城したと伝えられている。本丸や二の丸、三の丸に多くの遺構を残し、中でも天然の大岩を取り入れた石垣は、一見の価値がある。
 ここからの眺望は素晴らしく、正面にはかつての中仙道中津川の宿場町が広がり、その後には標高二一九一メートルの恵那山が高くそびえている。
 昭和五六(1981)年に国の史跡として指定されている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/6/12


桂春院 Keisyun-in 

Jp

 京都妙心寺には四〇余りの塔頭があるが、桂春院(けいしゅんいん)はそのひとつに数えられる。
 慶長三(1598)年、織田信忠の次男・津田秀則によって妙心寺に創建された見性院(けんしょういん)。秀則の死後、寛永九(1632)年に秀吉の家臣であった美濃の豪族・石河貞政が、父・光政の菩提所として見性院に方丈、庫裡、書院、茶室などを整備し、名を両親の法名から一文字ずつ取り、桂春院に改めたという。
 桂春院では江戸初期の作庭といわれる四つの庭も拝観できる。それらは「清浄の庭」「思惟(しい)の庭」「真如の庭」「侘の庭」と名付けられ、国の名勝・史跡に指定されている。
 庭園はそれぞれ違った趣をもち、豊かですばらしいものである。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



記事数88件: 1~8 件表示     >>     >|  
NIPPON Kichi - 日本吉 - 日本語に切り替える NIPPON Kichi - 日本吉 - to english

モノ・コト・ミル・ヒトで綴る
日本の美意識。

現在の記事 5444
カテゴリーズ
都道府県
キーワードシャッフル
お気に入り
キーワード検索
閲覧履歴



Linkclub NewsLetter