NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/12/5


吉見百穴 yoshimi-hyakuana 

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 埼玉県の吉見町にある「吉見百穴(よしみひゃくあな)」とは、六世紀末から七世紀末、古墳時代の末期に造られた横穴墓の集合墳墓である。大正一二(1923)年に国の史跡に指定されている。
 凝灰岩砂岩の丘陵の側面に、無数の穴が開いている。凝灰岩砂岩は、掘削に適した岩盤であったことから、横穴墓が彫られたのではないかと考えられている。
 明治二〇(1887)年に発掘調査がおこなわれた時には、コロボックル人といわれる先住民族の住居跡ではないかという説があったが、大正時代末期になり、古墳時代末期の墓穴であることが判明した。
 現在確認できる横穴の数は、二一九基である。そのうち、国の天然記念物で緑色の光沢を放つ「ヒカリゴケ」が自生している横穴もある。
 また第二次世界大戦末期には、この岩山の地下に日本軍の旧軍需工場が造られ、その際に掘られた穴も残されている。
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2008/11/14


南下古墳群 nanka-kohun-gun 

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 南下(みなみしも)古墳群は、群馬県の赤城山と榛名山の南の麓、利根川の西に位置する古墳群である。
 かつては四〇基を超える大規模な古墳群であったが、現在は九基が現存するのみとなっており、そのうちの五基の古墳に「A号」から「E号」まで名付けられている。
 五基の古墳のいずれも築造時期は古墳時代後期と考えられ、それぞれ石室の形状や使用している石に違いがある。
 その中で「A号」と「E号」の造りには共通点も多く、ともに榛名山の噴火時に噴き出した軽石を用いており、玄室壁面に石材加工の際の作業線とみられる赤い線を残している。これは古墳時代の設計技術をあらわした全国的にもほとんど例のない希少なものである。
 また古墳群のすぐ東には上野国三宮(こうずけのくにさんのみや)神社という古くから続く神社があり、近くには古墳時代から古代にかけての集落遺跡も多いことから、それぞれが密接な関係にあったのではと推測されている。
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2008/8/28


神鏡 Shinkyou 

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 まだ、科学の発達していなかった古代の人々にとって、自らの姿を映し出す鏡は神秘的なものであり、また、神の不思議な力が宿る畏敬の存在であった。
 日本でも弥生時代や古墳時代の有力者の墓から多くの青銅の鏡が出土している。また、邪馬台国の卑弥呼の時代には朝鮮半島を経て多くの銅鏡である方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)が日本に入ってきた。
 その後、鏡は、呪術や祭りでの神の権威の象徴として取り扱われるようになり、天皇の時代には神鏡は権威の象徴の一つとなっていった。
 天皇家に伝わる三種の神器の中の一つに八咫鏡(やたのかがみ)がある、この鏡は天照大神(あまてらすおおみのかみ)が天上より御くだりになった時、天照大神自身だと思って祀るようにと伝えられている鏡である。
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2008/4/11


丸透かし入カップ(辰砂赤) Marusukashi-iri-kappu(Shinsha-aka) 

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 西日本では弥生時代のおわり頃から赤色の顔料として辰砂(しんしゃ)が多く使われるようになり、古墳時代はじめには辰砂が古墳の石室に多く振りまかれるようになったという。
 陶芸で用いられる辰砂釉は、美しい赤色を発色する釉薬で、水銀ではなく銅を含んだ釉薬を用い、還元焼成したもの。
 この、丸透かし入カップは、辰砂の赤が美しいオリジナルの手造りカップである。
 透かし柄が入っており、とても素敵な仕上がりとなっている。
 素朴で麗しい辰砂の赤と、丸く柔らかなカップの形が解け合い、独特の魅力を生んでいる。
 丸透かし入カップは、手造りの味わいが器の姿にも現れている、美しいカップである。
 
サイズは
高さ9.5cm
直径6cm
底径5cm
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2008/4/9


朝日焼 Asahi-yaki 

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 朝日焼(あさひやき)は、京都府宇治市で焼かれる陶器を指す。この地では、古墳時代から焼きものが焼かれていた。室町時代に宇治茶の栽培が盛んになると、茶の湯向けの国産陶器が焼かれるようになり、これが朝日焼の原型ではないかといわれている。
 朝日焼の初代作陶は慶長年間(1596~1615)に宇治川のほとり、朝日山麓で開窯したと伝えられ、二代目の時に遠州七窯の一つに数えられるようになった。その後、苦しい時代を乗り越え、江戸末期には早くから御所への出入りを許され、全盛期を迎えた。伝統の窯と技は代々受け継がれ、今日に至っている。
 朝日焼は原料の粘土に鉄分を含むため、焼成すると独特の赤い斑点が現れるのが最大の特徴である。師匠が焼いたものという意味の赤い粗めの斑点が表面に浮き出たような器を「燔師(はんし)」、燔師とは対照的に鹿の背中を思わせるきめ細かな斑点が見られる器を「鹿背(かせ)」、鹿背の中でも特に鉄分が多くよりくっきりと紅色が見える器を「紅鹿背(べにかせ)」と呼んで区別している。
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2008/3/24


亀塚古墳 Kameduka-kofun Kamezuka Tomb

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 亀塚古墳(かめづかこふん)は、大分県大分市坂の市の町を流れる丹生(にゆう)川河口近くの左岸に位置する、丹生台地の東端にある古墳だ。
 前方部を南に向ける前方後円墳で、古墳時代中期の五世紀前半に築かれたものとされる。また、周辺には別な古墳もいくつかあり、一帯は亀塚古墳群としても認知されつつある。
 墳丘は三段に築成され、全長は一二〇m、後円部径六四mを誇り、県下最大の前方後円墳として知られている。
 地域一帯は、古くは豊後水道で縦横に船を操り活躍した海部民(あまべのたみ)の支配地域であったとされ、その首長が埋葬されていたと考えられている。
 平成八(1996)年に国の史跡に指定、同時に発掘調査も開始され、まが玉や土器、ガラス玉、剣、方位磁石など百五〇点以上の出土品があった。
 調査後は公園としての整備が進められ、円筒埴輪がめぐらされるなど、古墳も往時を髣髴とさせる姿へと復元され、人々の憩いの場所になっている。
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2008/3/18


猿楽神社 Sarugaku-jinja 

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 猿楽神社(さるがくじんじゃ)は東京都渋谷区の代官山、ヒルサイドテラスの一角にたたずむ小さな神社である。
 もともとは古墳時代末期、六世紀から七世紀に死者を埋葬した円墳の猿楽塚に建てられた神社である。
 かつて、猿楽塚には大小二基の古墳があり、その間には鎌倉街道が通っていた。大正時代にそのうちの一つを取り壊したところ中から多くの武具が見つかり、その作業を指示していた棟梁が奇病に取り付かれ、武具を元の場所に返したところ、棟梁の病気が回復したので、残された塚の上に猿楽神社が建立されたという。
 今では、毎年一一月にはヒルサイドテラスで猿楽神社の秋の祭礼が執り行われ、合わせて代官山フェスティバル猿楽祭も三日間繰り広げられている。
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2007/11/13


切妻造 Kirizuma-zukuri The Kirizuma-zukuri Style

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 切妻造(きりづまづくり)とは、切妻屋根を用いた日本の伝統的な建築様式の事である。
 日本の木造住宅の屋根は、切妻造、寄棟造、入母屋造の3種類を基本とする。
 切妻造は、屋根の頂上部である棟から左右にくだる2つの屋根面で構成される。屋根が外壁面とまじわる部分にできる三角形を妻とよび、妻のある側面からみると、屋根を妻で切ったようにみえるので、切妻造の名がある。
 古墳時代には、切妻造の屋根が豪族居館を象徴した。
 しかし、奈良時代に中国から伝来した木造建築では、正面からみたとき、横方向への屋根の広がりが認識できる寄棟造の方が、格式が上とされていた。
 やがて、屋根の妻をみせる切妻造の象徴性と、寄棟造の正面形式の両方を兼備した入母屋造が、宮殿や貴族住宅、寺院において一番好まれるようになっていく。
 切妻造は、日本の古代建築の基本といえる木造建築様式である。
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