NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/12/12


箱根宿 Hakonejuku 

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 箱根宿(はこねじゅく)は、東海道五十三次の宿場のひとつ。現在の神奈川県足柄下郡箱根町にあった。
 箱根宿は、慶長六(1601)年の宿駅制の発足から17年ほど遅れて設置された宿場である。箱根は険しい峠を越えなければならず、東海道随一の難所であったため、旅人の苦労を軽減しようと、急きょ両隣の小田原宿、三島宿から50軒ずつ移住させて作らせた。
 これにより、箱根には小田原藩の領地と幕府の天領があり、ひとつの宿場にふたりの領主がいるという、他の宿場にはない特徴があった。
 標高800mの地にあった箱根宿付近の並木には、楓が植えられ、春の新緑や秋の紅葉と、宿場道に趣を添えていたという。「箱根越え」に疲れた旅人たちは、この並木を見て旅の疲れを癒したのだろうか。
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2008/10/28


平塚宿 Hiratsukajuku 

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 平塚宿(ひらつかじゅく)は、東海道五十三次の宿場のひとつ。現在の神奈川県平塚市にあった。
 慶長六(1601)年に宿駅制度を成立させた徳川家康は、日本橋から京都までを結ぶ幹線道路として東海道を整備し、寛永年間までに53箇所の宿場を作った。平塚は、宿駅制度成立と同時に日本橋より7つめの宿場に指定された。本陣・脇本陣のほか約50軒の旅籠屋があったが、宿泊より休憩に使われることが多かったようである。
 平塚宿を描いた浮世絵は、安藤広重作のものを始め、多くの作品が残されている。平塚より望む富岳や大山、市内を横切る高麗山などがモチーフとなっている。平塚宿を出て西に向かえば、高麗山が前面に立ちふさがる様子は、昔も今も変わらない。
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2008/10/24


三島宿 Mishimashuku 

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 三島宿(みしましゅく)は、東海道五十三次の宿場のひとつ。現在の静岡県三島市にあった。
 三島は古くから伊豆の中心地として栄え、三嶋明神の門前町として大変な賑わいを見せていた。慶長六(1601)年に徳川家康が宿駅制度を作り、東海道に53箇所の宿場を設けた際には三島宿は東海道の起点、江戸日本橋から11番目の宿駅に指定される。
 その後、三代将軍家光が参勤交代制度を制定し、各大名の往来が多くなると、三島宿は江戸防衛の役割を担うことになった。また、三島宿は伊豆半島の文化、産物の流通の中心という役割も果たしていた。諸大名や幕府役人などが宿泊した本陣は2軒、大名家の家臣が宿泊した脇本陣は3軒あったほか、一般庶民の利用した旅籠屋は64軒もあったという。三島宿の賑わいは、安藤広重の描く浮世絵「東海道五十三次」にも残されている。
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2008/10/3


原宿 Harajuku 

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 原宿(はらじゅく)は、東海道五十三次の宿場のひとつで、江戸日本橋から数えて13番目の宿。現在の静岡県沼津市にあった。
 原宿は沼津宿と吉原宿の間に設けられた東海道の中では小さな宿場である。しかし浮島沼を背景にした富士山の眺めは街道一といわれ、安藤広重を始め多くの浮世絵師によって描かれている。
 現在は残念ながら宿場町の面影を残すものは数少ないが、かつての旅籠屋を継いで今も営業している旅館も残る。今では近代的な建物になっているが、中に入ると奥行きは長く、宿場の建物であったことを実感できる。また、街には旅籠屋や本陣跡を示す案内板なども立ち、かすかに往時の名残をとどめている。
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2008/10/1


戸塚宿 Totsukajuku 

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 戸塚宿(とつかじゅく)は、東海道五十三次の宿場のひとつ。現在の神奈川県横浜市戸塚区(旧吉田・矢部・戸塚村)にあった。
 日本橋から数えて5番目の宿で、日本橋を午前4時に出発した旅人が東海道を歩き、初日に泊る宿場が戸塚宿であったそうだ。日本橋から40kmの距離になるので江戸時代の旅人はずいぶん健脚だったことになる。
 戸塚宿は江戸寄りの「権太坂」と京都寄りの「大坂」の難所に挟まれていたため、休憩、宿泊客で大きな賑わいをみせていた。また戸塚宿は大山道・鎌倉往還との分岐点でもあり、大山参拝客や鎌倉の古寺を訪ねる人々にも高い人気があったという。
 戸塚宿跡地の現戸塚には、「お軽勘平道行」の碑や芭蕉句碑など、東海道五十三次の名残を残す歴史的な史跡もところどころ残る。遠い昔に思いを馳せて歴史散歩を楽しむ人々も多い。
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2008/1/8


旧取手宿本陣 Kyu-toridejuku-honjin Old Toridejuku Honjin

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 貞享四(1687)年に、水戸街道を通る大名などが利用する宿である本陣として取手宿の名主である染野家が選ばれた。それが旧取手宿本陣(きゅうとりでじゅくほんじん)である。
 寛政六(1794)年に一度焼失、翌年に立て直されたものが現在の母屋である。
 寄棟茅葺、桁行19m、梁間13・3mの大型の民家だが、式台玄関の上部に入母屋破風を造っており、重厚感を出している。
 内部は、宿泊を行う本陣部分と住宅部分が分かれており、三間続きの間や、書院造りの上段の間等があり、風格を重んじた造りとなっている。
 敷地内には、第9代水戸藩主徳川斉昭が天保一一(1840)年に水戸に戻る途中の利根川での船で詠んだ唄「指して行 さほのとりての渡し舟 おもふかたへは とくつきにけり」と、石に刻んだ歌碑が残っている。この歌碑は、後に江戸屋敷から届けられたもので、水戸徳川家と染野家のゆかりを示している。
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2007/10/3


亀山宿 Kameyama-juku Kameyama-juku

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 亀山宿(かめやまじゅく)は、三重県亀山市の東部にある、東海道四六番目の宿場町。
 宿場町であるが、城下町としても栄えた。多くの史跡が存在し、亀山城跡や石井兄弟敵討跡、江戸口門跡、京口門跡等が今もその姿を残している。
 安藤広重が描いた「東海道五十三次之内亀山」では、副題を雪晴とし、雪という気候の変化をテーマとしている。深い雪と斜面に生える木を描いているが、淡墨で描かれた真白い雪に美しさを感じる反面、当時の旅の困難さもうかがえる。
 現在、周辺には城の一部が移築再建された寺や、屋敷、直角に曲がった細い路地などが残り、城下の名残を残している。
 
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2007/8/16


群馬 白井宿 Gunma Shiroi-juku Shiroi-juku

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 群馬の白井宿(しろいじゅく)は、群馬県渋川市白井に残る昔懐かしい江戸情緒にあふれた街並みを現在に伝えている。
 白井宿は、利根川と吾妻川の合流点に栄えた宿場町である。
 道路の真中を流れる白井堰や路傍の石造物などが点在し、昔の佇まいが続いている。
 往時の面影をそのまま残す土蔵造りの家並みや、鐘楼、8つのつるべ井戸が今も残り、懐かしさを醸し出す。
 国道17号とバイパスからほんの僅かだが離れた場所にあるため、車も少なく、絶好の散策コースとなっている。
 毎年4月の第4日曜に開催される「白井宿八重桜まつり」には、武者行列や六斎市を楽しみに、多くの行楽客が訪れる。また、秋の紅葉も見事である。
 群馬の白井宿は、訪れた人を郷愁に誘う、日本情緒漂う心が落ち着く街並みである。
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