NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/4/22


アクリルのからくり人形 Akuriru-no-kawakuri-ningyou Acrylic Karakuri Doll

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 「からくり」は、機巧、絡繰、機関などと書かれるように、日本の伝統的な機械仕掛けのものを指し、特に江戸時代には、時計の歯車の技術を導入した精巧なからくり人形が作られた。
 その「からくり」の仕掛けをわかりやすく図示して世に公開したのが、土佐の郷士、細川半蔵である。この江戸時代の機械工学書『機功図彙(からくりずい)』は多くの職人が技術を発展させるきっかけになり、日本のロボット製造技術の原点ともいわれている。
 そして20世紀に誕生したアクリル樹脂。半蔵の「公開魂」は、この「からくり」を復元した大野勇太郎にも受け継がれ、アクリル製のからくり人形が誕生した。
 現在の最先端技術による透明な歯車の美しさ、それが組み合わさった姿、そして歯車の動く様子が見られるのがすばらしい。
 綺麗な着物を着た人形が美しくお茶を運んでくれる。そのこと自身がとてもエキサイトであるが、中味を知りたい。作りたい。そして仕掛けも綺麗に見せたい。
 そんな職人達の気持ちが日本の美意識を支えている。
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2008/4/14


からくり人形 Karakuri-ningyou Karakuri Doll

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 からくり人形(からくりにんぎょう)とは、伝統的な機械仕掛けの人形の事である。
 からくりは10世紀頃の中国に見られ、日本に渡ってきたのは室町時代の事といわれている。
 江戸時代に入ってからは、時計などに使われていた歯車などの技術を人形の動作装置として応用し、からくり人形が作られ始めた。
 当初は上流階級の玩具であったが、次第に見世物として人気を呼ぶようになり日本各地に普及した。
 寛文二(1662)年には竹田近江がからくり芝居の興行をしており、享保年間(1716~1735)にはからくり門弥がからくりを駆使した乗り物を作っている。
 幕末には「からくり儀右衛門」こと田中久重が、江戸からくりの最高傑作と言われている「弓曳き童子」を製作した。
 からくり人形は、現代の人型ロボットの原点とも言える、日本の伝統的な精密機械である。
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2008/3/18


匂い袋 Nioi-bukuro 

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 匂いに関する文化は世界中に存在し、古来より権力を制した者や身分の高き者は香りを非常に大切にしていたという。
 香りの文化を日本ではじめて取り入れたのは、聖徳太子であるといわれている。匂い袋に関しても奈良時代にはじまり、正倉院の宝物の中に、現在の匂い袋の原点である裛衣香(えびこう)が残されているという。
 匂い袋の中は常温で香りを発散する香原料を刻み、調合して和紙や袋に詰められているのが特徴である。袋を身につけたり、壁や柱につるしたり、禅僧の座傍などにも用いられてきた。また、香原料のうち白壇(びゃくだん)や龍脳(りゅうのう)、丁子(ちょうじ)は防虫効果もあるので、袈裟(けさ)や僧衣(そうい)にもつけられていたという。
 平安時代に入ると貴族たちは個々の香りを出す為に、色々な香原料を工夫したという。香りに関しては源氏物語の中にもしばしば登場する。その後、公家から武家へと香りの文化は受け継がれていったとされる。匂い袋は日本文化の一端を香りで感じるものである。
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2008/2/25


中島宏(人間国宝) NakajimaHiroshi 

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 なかしま・ひろし。昭和一六(1941)年、佐賀県武雄市生まれ。中国の陶磁器でも最も難しいとされる青磁(せいじ)一筋に作品を作り、伝統をそのままコピーするのではなく、独自の「中島青磁」を確立したことが高く評価され、平成一九(2007)年九月、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。
 磁器を焼く窯元に育った氏は、泥だらけになる家業を好きになれなかった。転機になったのは、父親に連れられて始めた窯跡の調査だった。「青磁なら自分の存在感が出せる」と進む道を決めてからは、窯跡を歩き、文献をひもとき、手探りで研究を続けた。常に白紙からスタートするという姿勢で臨み、中国青銅器や印象派の絵から、技法のヒントを得ては試行錯誤を繰り返してきた。
 氏は「より良いものを作らなければ、世間も自分も納得しない。原点に立ち返り、青磁とは何か自問自答したい。見た人の琴線に触れ、使う人の情が移るような作品を手掛けたい」と語る。原点回帰と創造へのこだわりが、人を感動させる作品を生み出していく。
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2007/10/15


【仁】 Nin,Jin Humaneness, Benevolence

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 昔から、中国・越南(現在のベトナム)・韓国・日本などに、広く伝わる東洋思想の代表的な倫理概念です。それは孔子の教えや儒教が広がったからです。この字がまったくの抽象的な概念になる前の経緯が気になります。確かに孔子の時代にはすでに漢字の原点についての詳しい知識が失われていたので、そういう意味では操作・利用しやすい字でもありました。
 「にんべんと二という数字の組み合わせではないか」という俗説がよく聞かれます。「二人の間」から「人間の間の倫理」という意味にまで抽象化され、仁義礼智信という儒教の根本概念の一つになったという説があります。確かに、旧字体はにんべんですが、右の部分の解釈が大事になってきます。
 実は漢字の中に数字がそのままの意味で要素として表現されることはありません。旧字体でない常用漢字の字形に見えても、抽象的なものが漢字の中の要素として表現されるという考えは俗説の特徴です。
 例えば、「悟」に出てくる「五」の部分も数字とは関係がなく、その下の「口」が表す祝詞の器をしっかりと閉めている木製の二重蓋を表しています。また人間二人を示すのには「比」という字などがほかにあります。
 基本的に漢字に出てくる要素は人・物です。古代社会にあったものですから、にんべんの形は人間が座ろうとする時の姿、そして右の部分はその敷物だと考えられます。東洋なので、椅子ではなく、敷物・古代の座布団のようなものです。そのことから仁という抽象倫理概念までのちょっと違う道筋があきらかになります。つまり人に敷物をすすめるという心です。
 まさにホスピタリティー、お客さん・たずねびとへの配慮のような心構えではないでしょうか。本来はそういう温かい気持ちをあらわす概念なのです。
 
■ 仁・金文(きんぶん)
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2007/9/11


桐塑人形 Touso-ningyou 

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 桐塑人形(とうそにんぎょう)は、材料に桐塑を用いて製作された人形である。
 桐の木粉と生麸糊(しょうふのり)を練り上げてできる、弾性のある粘土状の素材を桐塑と呼ぶ。
 その原点は奈良時代の乾漆にあるとされ、粘土状の素材であることから自由な肉付けによる造形が可能で、乾燥すると大変硬くなるため、木材同様に彫刻を施すこともできるという特色を持つ。
 また、作りたい形にくりぬいたところに桐塑を詰め込み、同じような形のものをたくさん作る製作方法にも適していたため、江戸時代においては雛人形などの頭部や、手足を作った練り物の技法としても現在に受け継がれている。
 仕上げには胡粉仕上げや和紙貼、布貼、彩色などの各種の精緻な技法が駆使される。
 顔や手足の部分は特に念入りに作業が行われ、上塗り胡粉を塗り重ねた上で、目や眉、唇や毛髪を書いて仕上げる。
 そうして仕上げられる人形達の表現はとても豊かなものであり、現在では創作人形の重要な一分野を占めている。
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2007/8/10


三浦天満神社 五ツ鹿踊り Miura-tenman-jinja Itsu-shika-odori 

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 愛媛県宇和島の三浦天満神社で行われる秋祭りの中で舞う鹿踊。
故あって隠れてしまった雌鹿を雄鹿たちが苦心して探し出す様を踊りで表現している。鹿は神に仕える神聖な動物であり、その鹿がその土地を訪れ幸運を祈って帰っていくことが鹿踊の原点にある。
 鹿踊は初代宇和島藩主の伊達秀宗が仙台よりもたらしたものと言われている。現在も仙台地方に伝わる鹿踊・獅子踊りと共通する部分が多々見受けられる。
 鹿の数は五頭から八頭があり、同じ宇和島にある宇和彦神社の秋祭りは「八ツ鹿踊」である。
 三浦天満神社の鹿踊は子供が担うものであったが、少子化のため、現在では成人が担当するようになった。他の練りは子供が担当し、三浦天満神社の練りは県の無形民俗文化財に指定されている。
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2007/7/23


清内路の手づくり花火 Seinaiji-no-tezukuri-hanabi Handmade Fireworks in Seinaiji Village

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 長野県・清内路村(せいないじむら)の手づくり花火は、270年の歴史を持つ伝統の技である。
 起源は江戸時代に遡る。葉たばこの行商を通じて古くから三河方面(現愛知県)との交流があり、たばこと引き換えに火薬製造の秘伝を伝授してきたことが、清内路の手づくり花火の原点と言われている。
 花火は、毎年10月6日には上清内路諏訪神社、10月8日には下清内路諏訪神社と建神社の秋の祭礼でそれぞれ奉納されている。これは、江戸時代の享保十六(1731)年に諏訪神社社堂の再建を祝って奉納して以来、決して絶やすことなく受け継がれてきた伝統である。
 村には50人以上の製造資格者がおり、奉納の1ヶ月以上も前から何種類もの仕掛け花火や筒花火の準備にいそしむ。
 清内路の手づくり花火は、1998年の長野冬季五輪の閉会式のフィナーレで飾ったことでも有名である。
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