山形鋳物 Yamagata-imono Yamagata Iron Casting
|
平安時代中期、安倍貞任(あべさだとう)・宗任(むねとう)の乱を治めるため、源頼義が山形地方を転戦した。従軍していた鋳物職人が、山形市に流れる馬見ヶ崎川の砂や千歳公園の土質が鋳物に最適であることを発見し、その後何人かの鋳物職人がこの地に残った。これが「山形鋳物(やまがたいもの)」の始まりである。
延文元年(1356)年、斯波兼頼(しばかねより)が山形に入り、霞が城を築城した。その際、鋳物師九人が鋳物御用を申し付けられ献納したと伝えられている。
元和元(1615)年、銅町九人衆の一人である庄司清吉が、京都などを視察し、足踏式の送風装置である「たたら」を考案、ここに山形鋳物の技術が確立された。
昭和一三(1938)年頃、銅町には鋳物業は四〇戸、従業員は約八百人もおり、道路をはさんで両側は殆どが鋳物の店で、火鉢・湯釜・仏器などの実用品が盛んにつくられていた。
昭和四九(1974)年、銅町が手狭になり、鋳物町の山形鋳物工業団地に移転、翌年経済産業省の伝統的工芸品に指定された。
延文元年(1356)年、斯波兼頼(しばかねより)が山形に入り、霞が城を築城した。その際、鋳物師九人が鋳物御用を申し付けられ献納したと伝えられている。
元和元(1615)年、銅町九人衆の一人である庄司清吉が、京都などを視察し、足踏式の送風装置である「たたら」を考案、ここに山形鋳物の技術が確立された。
昭和一三(1938)年頃、銅町には鋳物業は四〇戸、従業員は約八百人もおり、道路をはさんで両側は殆どが鋳物の店で、火鉢・湯釜・仏器などの実用品が盛んにつくられていた。
昭和四九(1974)年、銅町が手狭になり、鋳物町の山形鋳物工業団地に移転、翌年経済産業省の伝統的工芸品に指定された。
- 住所
- 990-2351 山形県山形市鋳物町10
- 名前
- 山形鋳物工業団地協同組合
- 電話
- 023-643-6031
- imono10@chuokai-yamagata.or.jp
- HP
- http://www.chuokai-yamagata.or.jp/imono/