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2007/2/12


鶴見古墳 Tsurumi-kofun Tsurumi Ruins

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 国指定史跡「川部・高森古墳群」(宇佐風土記の丘の古墳群)は、6基の前方後円墳を中心として、周辺に約120基で構成される。それぞれの前方後円墳は地形的には独立した場所に営まれ、その方向もバラバラである。前方後円墳以外の墳墓は耕作などによって墳丘を失い、現状では墓と認識できないものが多いが、前方後円墳を中心に、このように多数の周溝墓が集中する遺跡は大分県内ではここだけ。九州内においても特徴的な遺跡で、規模も宮崎県の西都原古墳群(約320基)に次ぐ。
 「鶴見古墳」は、赤塚古墳に始まる川部・高森古墳群の中で、最後に造られた前方後円墳で、6世紀の中頃に築造された。この古墳は、赤塚古墳の被葬者から代々にわたって宇佐地方を治めた首長の系列を伝える最後の古墳。また、古墳時代後期の葬送の典型的な一例として重要な位置を占めている。
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2007/2/7


烏土塚古墳 Udozuka-kofun 

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 烏土塚古墳(うどづかこふん)は、奈良県を流れる竜田川の西岸、南北方向の独立丘陵に築造された前方後円墳。古墳時代の豪族、平群氏の墓とされる。昭和四六(1971)年、国の史跡に指定された。
 奥行き14.2メートル、玄室の高さ4.2メートルの石室は、飛鳥の石舞台古墳に次ぐ大きさを誇っている。築造年代は、平群氏最盛期の6世紀中期と見られるという。
 玄室から羨道、前庭部にかけて排水溝がめぐらされ、玄室のやや奥に組合式の家形石棺が安置。石棺の東側の石には斜格子の線彫りが刻まれている。
 石室内の組合式石棺を保護するために、通常は石室を施錠されている。
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2007/1/30


石舞台古墳 Ishibutai-kofun Ishibutai Tumulus

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 奈良県明日香村にある「石舞台古墳」。巨石30個を積み上げて作られた石室古墳だ。
 6世紀の築造で、規模は日本最大級を誇る。玄室は、長さ約7.7m、幅約3.5m、高さ約4.7m、羨道は長さ約11m、幅2.5m。使われている石の総重量は77トンにもおよぶ。
 蘇我馬子の墓であったとする説が有力。盛土が剥がされ、墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する怒りからという説もある。
 昭和八(1993)年と昭和十(1935)年に京都帝国大学(現京都大学)の浜田耕作らが中心となり、発掘調査を行った。しかし、すでにほとんどの埋葬品が盗掘にあった後であり、石棺の欠片等が発見されるに留まったという。
 石舞台古墳は、明日香地域の観光シンボルとして訪れる人たちに親しまれている。昼間は公開され、石の下に入ることが出来るという。
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2007/1/26


古代の丘 Kodai-no-oka Kodai-no-Oka and Jomon Village

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 山形県長井市にある発掘された遺跡の博物館。西山山麓、縄文村の中にある。
 長井市は縄文時代の遺跡が多い。昭和52年からの調査によって、この地が旧石器時代から弥生時代までの古代人の暮らしの場であったことがわかった。
 各遺跡から発掘された土偶や考古資料を縄文村で保管、村の中にある「古代の丘」には、土偶の巨大なオブジェななどが置かれている。
 復元された「竪穴式住居」では体験キャンプもできる。
 古くから残る、山、川、丘や森を大切に考え造られた施設でもあり、
 周囲にはめずらしい動物や植物なども生息している。
 秋などは、紅葉が綺麗でキャンプなどもできる。
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尻八館 Shirihachi-date Shirihachi-date Fort

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 小高い山の山頂部に築造された中世の山城。標高180mの山頂に位置し、堀・腰郭・土橋などが見られる。
 発掘調査により13世紀後半から15世紀後半に作られた中国製陶磁器が数多く見つかり、特に「青磁浮牡丹文香炉」は、青森県内でみつかった陶磁器の中で最も優れたものと言われている。
 昭和53〜54年にかけて行われた発掘調査で、堀跡の解明や生活用具など総数1800点にのぼる遺物が発見され、その質の高さは、津軽の中世史に新たな局面を開くこととなった。
 現在、県立郷土館に展示してある遺物を見ると、中世における東アジア交易の逸品が並んでおり、「辺境」のイメージとは程遠い遺跡の姿を見せてくれている。
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七戸城 Shichinohe-jo Shichinohe Castle

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 鎌倉時代に創築されたと言われ、長い間七戸南部氏の居城であった。江戸期になってからは南部(盛岡)藩領となり、代官所が置かれていた。
 城は柏葉城とも呼ばれ、作田川、和田川合流点付近の、北西から市街地へ延びる比高40mの洪積台地の先端を利用して造られている。遺構は本丸、二の丸、北館、下館、宝泉館、西館、角館の7郭より成り、(指定面積は約9万5千平方m)各郭には独立性が認められ、空堀、帯郭、腰郭、虎口、武者隠し等もみられる。  
 天正十九(1591)年、城主7戸家国は九戸政実の一揆に加担して滅び、翌年城は壊された。
 現在、七戸城跡保存管理計画に基づき、北館の発掘調査を行っているが、平成8年、本丸、二の丸間の堀跡が確認され、また15世紀頃の遺物が出土している。
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2007/1/25


こうもり塚古墳 Koumoriduka-kofun Koumoriduka Archeological Site

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 国指定史跡、「こうもり塚古墳」。六世紀後半に自然の丘陵を利用してつくられた全長約100メートルの前方後円墳だ。
 「こうもり塚古墳」の名は、こうもりが棲みついたことから付けられた。横穴式の石室は全長19.4メートルと、奈良県の石舞台古墳の石室に匹敵する大きさだ。長い羨道とその奥の玄室とから成っている。玄室には家の形の大きな石棺が納められている。この石棺は井原市野上町産の浪形岩(貝殻石灰岩)を材料とした、くり抜き式の石棺。ほかにも陶棺や木棺が納められており、後期古墳に一般的な、複数埋葬であったことが窺われる。
 この古墳は、大きな墳丘や内部の石室、石棺などに見られるように、多くの労働力を集められるほどの勢力を誇った支配者層の墳墓であることを示しているといわれる。
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志賀島 Sika-no-sima The Island of Shika-no-Shima

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 志賀島は、福岡県福岡市東区にある島で、博多湾の北部に位置し、砂州により本土と陸続きになった陸繋島である。
 志賀島は、周囲約11km、全戸数約790戸、人口約3000人余り。このような形態の島は、全国的にも珍しい。
 天明四(1784)年、2人の農民がこの島の田んぼで偶然「漢倭奴国王」の金印を発見した。
 中国の後漢書に、57年、光武帝が奴国の使者に金印を渡したと書いてあり、これがその金印だと言われている。歴史的にも貴重な品で、国宝である。
 この金印は日本の歴史の始まりを示す品であり、今は福岡市博物館に展示されている。金印がなぜこの志賀島に埋没していたかは今でもよく解っていない。
 志賀島は、古代日本の大陸・半島への海上交易の出発点であり、古から続く歴史的舞台である。
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