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2008/9/10


疱瘡踊り Housou-odori 

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 疱瘡(ほうそう)踊りは、鹿児島県南さつま市に伝わる郷土芸能である。県の無形民俗文化財に指定されている。藩政時代から踊り継がれてきた古い踊りである。
 治療方法が分からなかった時代、疱瘡やコレラなど、人力の及ばない病気はひたすら神仏に加護を求め、悪疫の終息を願うしかその術を知らなかった事から、これが疱瘡踊りの起源といわれている。
 天然痘が絶滅し、踊りも一時途絶えていたが、終戦後に復活し、今では毎年二月一一日に、地域の行事や花尾神社の大祭などで踊られている。
 踊りは、女性20名程度と歌い手3~4名で構成される、歌のリズムに合わせた静かなもので、踊り手・歌い手とも着物姿で、手には神様を守る力があるという御幣(シベ)を持って踊る。
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2008/8/25


内子町 立川神楽 Uchiko-cho Tachikawa-kagura 

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 内子町(うちこちょう)の立川神楽(たちかわかぐら)は、愛媛県喜多郡内子町中川の川中三島神社に伝わる伝統芸能である。
 川中三島神社は、和銅五(712)年、創建されたと伝えられ、享和二(1802)年、火事で炎上し、その後再建された。祭神は大山積命、高おかみ神で、喜多郡一宮とされる。
 立川神楽は、再建後、鎮火の神楽舞いを奉納するようになったことが起源と伝えられ、町の無形民族文化財に指定されている。
 出雲系の神楽で、保存会に伝わる神歌集をもとに、神様が降りてくる「舞の口」、盆を月と太陽に見立てた「盆の舞」など、17種類もの演目があり、1回の奉納に要する時間は5時間近くにも及ぶ。
 毎年春には、2月第1日曜~4月29日まで、内子町内外で約30回にも及ぶ奉納を行っている。
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2008/8/14


琉球民謡 Ryukyuminyou 

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 琉球民謡(りゅうきゅうみんよう)は、沖縄県に伝わる伝統の音楽である。
 元々、琉球の古典音楽は、王朝時代の上流階級の教養人によって創造されたもので、琉球舞踊や組踊と結び付いて発展した。
 琉球民謡はいつどのような形で誕生したかは不明だが、謡そのものは古い時代から各地域で謡われていたと考えられている。
 その最大の特徴は琉球音階で、ドレミの音階のうち、レとラを抜くのが大きな違いとなっている。
 今日でも民謡は祝事や行事の際には欠せないものとして歌い踊られているが、沖縄で実際に聴きたい時は、民謡酒場に行けば、生で本格的なものを聴く事ができるという。そこでは、泡盛を片手にステージの民謡を味わえる。
 なお最近では、沖縄民謡のことを島唄と呼称される事があるが、島唄は本来奄美民謡の呼称であるため、琉球民謡とは別であるとも言われている。
 琉球民謡。その響きはどこか懐かしく、県外の人々の間にも人気のある郷土芸能である。
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2008/8/13


詩吟 Shigin 

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 詩吟(しぎん)とは、漢詩や和歌などを独特の節回しで吟じ、歌う日本の伝統芸能である。
 日本語の言葉の語尾の母音を長く引き、そこに「節調」という独特の旋律を付加する唄い方の事を言い、詩吟を行う事を吟詠(ぎんえい)と言う。
 古くは中国から漢字が伝わった奈良・平安時代から、漢詩に節をつけて自由に歌っていたと言われている。
 今の詩吟の起源は、幕末・維新の頃、漢詩を吟唱する事が武士階級の間で流行し、今日行なわれている吟詠の直接の起源となった事に由来する。
 吟じ方には、一人で吟ずる独吟、数人で交互に吟ずる連吟、大勢の人が一緒に吟ずる合吟などがあり、剣舞を織り交ぜる事もある。
 詩吟は、現在では短歌や近体詩など漢詩以外の日本語でも吟詠されている、伝統芸能である。
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2008/8/11


落語 Rakugo 

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 落語(らくご)は、日本の話芸の一種で、代表的な大衆芸能の一つである。何人かの登場人物や状況描写などのすべてを一人の話者が行い、物語は二人以上の掛け合いで進行する事が多い。
 話者は、高座という観客より少し高い位置に座り、観客に向って噺す。身振り手振りのしぐさを使い、声音を上手に使い分けて、笑いや涙を誘う。
 話の最後に「落ち」をつけて終わるところから、落語と呼ばれるようになったという。
 起源は、室町末期の戦国大名が相談役兼話相手として召し抱えた御伽衆(おとぎしゅう)とされ、江戸時代になると安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)らの御伽衆が活躍し、小咄をまとめた「醒睡笑」が出版された。
 その後、落語は上方で発展してゆき、寛政一〇(1789)年、江戸に三笑亭可楽、三遊亭円生、上方に桂文治が登場し、定席が設けられるようになって落語は一気に庶民に広まった。
 落語は現在でも、主に寄席(よせ)と呼ばれる劇場で公演されている、人気の伝統芸能である。
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2008/8/1


鎌田流棒の手 Kamata-ryuu-bou-no-te Kamata-ryu Bo-no-te

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 天正の時代、岩崎城主丹羽勘助氏次(にわかんすけうじつぐ)が領民達の武術の指南役として鎌田兵太寛信(かまたへいたひろのぶ)を家臣として迎えた。寛信は武術の達人で特に棒術を得意としていた浪人であった。
 後に「小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)」においては勇戦した寛信であったが、戦後は戦没者の供養のため仏門に入り諸国を行脚した。
 郷里尾張を訪れた際、村民の懇願で、当地に鎌田流の道場を開設。やがて「鎌田流棒の手(かまたりゅうぼうのて)」は三河地方にも広まっていった。
 その後、農民の戦力であった棒の手は長い歴史を経て、農村の若者が演ずる農民芸能として神社の祭礼に奉納される行事となっていった。
 独特の掛け声で一・一メートルの棒を操る勇壮な姿は見物である。県の無形文化財に指定され、次の代に伝えるべく熱意を持つ人々によって今もなお技が磨かれ受け継がれている。
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2008/6/6


八戸えんぶり Hachinohe-enburi 

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 「八戸えんぶり」とは、毎年二月一七日から四日間、八戸地方で行われる伝統芸能である。豊年祈願のお祭りとして知られ、昭和五四(1979)年二月、県内初となる国の重要無形民俗文化財に指定されている。
 「えんぶり」とは、昔「えぶり」という農具を手に持って舞ったことが由来となり、それがなまって「えんぶり」と言われるようになったといわれる。
 太夫と呼ばれる舞い手をはじめ、歌い手など総勢二〇人ほどで一組が構成される。太夫は農耕馬の頭を象徴する色鮮やかな烏帽子をかぶり、種まきから稲刈りまでの稲作における動作を表現し、頭を大きく振りながら舞うのが特徴であるとされる。
 えんぶりには「ながえんぶり」という昔ながらのゆっくりした形と、「どうさいえんぶり」という現代的な調子の速い活発な形があるといわれる。
 この祭りは、長者山新羅神社を中心に行われる。また、青森冬の三大まつり、みちのく五大雪まつりに数えられているという。
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2008/4/25


江差追分 Esashi-oiwake 

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 江差追分(えさしおいわけ)は、北海道檜山郡江差町発祥の民謡である。道の無形民俗文化財に指定されている。
 今から約300年前の江戸時代中期頃、信州中仙道の軽井沢付近で馬子や宿場の飯盛り女達がうたっていた馬子唄(まごうた)が、旅人や旅芸人によって北国街道を通り、越後に伝えられ、山の唄が海の調べに変わって越後追分となったと言われている。
 江差に運ばれた追分節は、当時の流行歌と交わって江差追分節が生まれたとされ、その後、北国の風土と厳しい自然にもまれ、独特の哀愁をおびた江差追分の節が完成された。
 その後、次第に我流が登場し、俗に流派といわれる浜小屋節、詰木石節、新地節、芸者節などが生まれていった。
 江差追分は、民謡の王様とも言われる北海道の郷土芸能である。
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