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2008/7/25


京都 保津川下り Kyouto Hozugawa-kudari Boat Ride down the Hozu-gawa River, Kyoto

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 京都の保津川下り(ほづがわくだり)は、京都府亀岡市保津町~京都市嵐山まで約16kmの渓流を、約2時間で下る舟下りである。
 川下りというのは、長岡京に都があった頃(784~794)から、保津川の水流を利用して下流にある京都・大阪に物資を輸送する事にはじまった言葉で、いわゆる水運の事である。
 慶長一一(1606)年、角倉了以(すみのくらりょうい)が、木材・薪炭など丹波地方の産物を京へ送るための産業水路として開いた。これが、保津川下りの起源とされている。
 今では、日本一の川下りとして、国内はもちろん世界的にも良く知られている。
 曲がりくねった狭い川筋は、激流岩を生んで、かいの音が木霊し、谷間ではウグイスが鳴き、夏はかじかの涼やかな合唱が聞こえる。
 保津川下りは、桜、岩つつじ、新禄、紅葉、雪景色など四季折々の景観も魅力的な舟下りである。
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2008/7/24


最上稲荷(妙教寺) Saijou-inari(Myooukyou-ji) 

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 最上稲荷妙教寺(さいじょういなりみょうきょうじ)は岡山県岡山市にある寺であるが、日本三大稲荷の一つでもある。日蓮宗系の独立宗派である最上稲荷教の総本山になっており、明治の神仏分離令の折にも神仏習合を許されたお寺である。
 創建は岡山出身の僧で天平勝宝四(752)年に孝謙天皇のご病気を祈祷で快癒したとされる報恩大師(ほうおんたいし)といわれている。当初は龍王山神宮寺と呼ばれていたが、豊臣秀吉の備中攻めの折に焼失、慶長時代に日円上人が再興、その際に稲荷山妙教寺と改められた。
 寺前の参道には神仏習合を思い起こさせるように鳥居が立っているが、山門にいたっては薬医門である。石段を登り山上に行くと巨大な本堂が建てられている。さらに上に上がると報恩大師が修行をしたといわれる八畳岩や旧の本堂跡があり、周りには多くのお稲荷さんが祀られている。本堂跡付近では他の寺にはない神秘的な雰囲気が漂っている。不思議な感覚を呼ぶお寺である。
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2008/7/23


金戒光明寺 Konkai-koumyou-ji 

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 黒谷(くろたに)さんの名で親しまれている、京都左京区黒谷にある金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、浄土宗の開祖法然が比叡山の黒谷を下り、師・叡空(えいくう)より譲り受け、草庵を結んだ地である。承安五(1175)年、法然四三歳のころである。
 念仏によって人々が等しく救われるという浄土宗を開いた法然は、この地に念仏道場を開いて念仏の輪を広めた。これが浄土宗の寺院のはじまりである。
 法然の死後、法蓮房信空(ほうれんぼうしんくう)と弟子達に引き継がれ、伽藍を整えられながら大寺院となった。
 建物は応仁の乱の戦火などで焼失したため、創建当時のものは残されていない。一番古いものは阿弥陀堂で、慶長一〇(1605)年に豊臣秀頼によって再建したものと伝えられている。
 幕末には京都守護職を勤めた会津藩が、ここに新撰組を預かったことでも知られている。
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2008/7/22


小判 Koban 

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 小判(こばん)とは、江戸時代に流通した小型の金貨である。
 慶長六(1601)年、前年の関ケ原の戦に大勝した徳川家康は、幕府開設に先立ち金座・銀座を設けて貨幣を鋳造した。
 全国に通用させることを目的として、金貨としては小判と一分金が鋳造され、単位には甲州金で用いられていた両・分・朱が採用された。これが慶長小判である。
 慶長小判は質量ともに最も良く、重さ18g、純度86%の良貨で、山吹色をした代表的な小判としてよく知られている。
 しかし以後は、正徳享保期を除き、時代ごとの経済政策により金含有率・重量ともに改悪されることが多く、時代毎に発行された種類によって大きく価値が違ったものになった。
 明治以降は新貨条例が施行され、小判は新貨幣と交換され、流通しなくなっていった。
 小判は、江戸時代に作られ、用いられた日本の貨幣である。
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2008/7/16


貞山運河 Teizan-unga Teizan Canal

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 貞山運河(ていざんうんが)は、仙台湾沿いにある運河のことをいう。総延長約四六、四キロメートルの全国一長い運河で、旧北上川河口から阿武隈川河口までを結んでいる。
 仙台藩主伊達政宗は慶長二(1597)年、松島湾と阿武隈川を結ぶ運河の建設を命じた。政宗亡き後も複数の運河が計画され、その後明治一七(1884)年まで建設が続いた。貞山掘とも呼ばれ、伊達政宗公の謚(おくりな)である「瑞巌寺殿貞山禅利大居士」(ずいがんじでんていざんぜんりだいこじ)からその名がついた。
 この時代の物資輸送は舟運が中心だった。当時の内務卿大久保利通は、東北六県の長官に意見を求め、宮城・岩手間の米輸送に欠かせなかった北上川に着目し、北上川と阿武隈川を結んで東北の輸送手段を造ろうと考えた。
 現在の運河は、農業用水路や漁港の一部として利用されるほか、釣りの名所としても知られる。また、七北田川から名取川にかけての運河沿いには、美しい松林が続く海岸公園があり、サイクリングロードなどが整備されている。
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2008/7/9


金剛證寺 Kongoushou-ji 

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 金剛證寺(こんごうしょうじ)は、三重県伊勢市の朝熊山(あさまやま)南峰の経ヶ峯に位置する古刹で、御本尊は日本三大虚空蔵菩薩の一つ、福威智満(ふくいちまん)虚空蔵大菩薩である。
 伊勢神宮における北東の方角である鬼門を守る寺としても知られている。
 その創建は、第二九代欽明天皇の御代(509~571)、暁台(きょうたい)上人によって明星堂が開かれたのが始まりとされる。
 平安時代の天長二(825)年には弘法大師によって真言密教道場として堂宇が建立され、密教修業の大道場として隆盛を誇った。
 その後、衰退を見せるも応永年間(1248~1394)に仏地禅師により再興され、以来禅寺に改められて今に至っている。
 現在の本堂は、岡山城主であった池田輝政の寄進により、慶長一四(1609)年に再建されたもので、その一重寄棟造の堂々たる巨宇は国の重要文化財に指定されている。
 境内には約一万柱が立ち並ぶ供養卒塔婆、その卒塔婆道への入り口に立つ極楽門などがある。
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2008/7/1


白磁透かし彫り Hakuji-sukashibori 

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 「白磁透かし彫り(はくじすかしぼり)」とは、長崎県指定無形文化財で、三川内焼(みかわちやき)のひとつに数えられている。
 その昔、豊臣秀吉が起こした朝鮮の役を別名「焼物戦争」といい、各地の大名は秀吉の命により、朝鮮の陶工を連れ帰った。平戸藩主・松浦鎮信(まつうらしげのぶ)は慶長三(1598)年、陶工・巨関(こせき)を連れ帰り、巨関が藩主の命で平戸・中野に最初の窯入れをしたのが三川内焼の始まりである。
 伝統ある三川内焼には、唐子絵に代表される呉須(ごす)による染付、薄手白磁の卵殻手などが挙げられるが、特に特に高度な技術と芸術性に富んだ作品が、精巧緻密な白磁透し彫りである。玉泉(ぎょくせん)製陶の第一四代の福本正則氏は、先代・福本数市氏に師事し、三川内焼の中でも「白磁透かし彫り」の秘法を伝授された。
 玉泉窯の中で代表的な作品が「香炉」である。数ミリ間隔で無数に開けられた亀甲型の穴から明かりが灯される時、光の美しさと陶磁器の白さが重なり、優しい姿が写し出される。
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2008/6/30


羽衣石城 Ueshi-Jo 

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 羽衣石城(うえしじょう)は、鳥取県東伯郡湯梨浜町にあった山城である。
 正平二一(1366)年、南条貞宗によって標高376mの羽衣石山に築城され、以後、南条氏の拠点として使用された。
 山陰道と東郷池に臨む東伯耆の要衝にあり、尼子氏や毛利氏と激しい攻防を繰り返した。
 慶長五(1600)年、関ヶ原の合戦で南条氏が敗れ、羽衣石城は廃城となる。
 昭和六(1931)年、南条氏の子孫の手により、山上に模擬天守が建てられた。
 現在、羽衣石城にはよく整備された模擬天守と物見櫓風の展望台があり、山頂部に本の丸、二の丸、三の丸を配置し、主郭部から西へ削平地が幾段も置かれ、東の尾根には2筋の堀切が残る。
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