NIPPON Kichi - 日本吉

記事数7件: 1~7 件表示          

2008/8/29


箒 Houki Houki (Japanese broom)

Jp En

 箒(ほうき)は、チリやホコリを掃き除くための道具である。用途別により座敷箒と庭箒に分けられる。
 座敷箒の原料には、ヤシ科の植物の棕櫚(しゅろ)やイネ科のホウキモロコシが使われる。棕櫚箒は西日本に多く、棕櫚皮一枚に数本ある「鬼毛」を集めて作られる。またホウキモロコシはモロコシ属の1年草で、2メートルほどに高く穂を伸ばす。刈り取ったホウキモロコシの穂の部分を脱穀し、約1週間天日干しで乾燥させ、いい穂をよって束ねていく。
 箒には掃除という実用的な用途のほか、「払う」という機能から生まれたさまざまな風習がある。
 長居の客を早く帰らせるため、箒を逆に立てるまじないがあったり、箒が安産の神と考えられ、妊婦の枕元に立てて安産を祈ったり、産気づいたときには燈明をつけて妊婦に拝ませ、その箒で妊婦の腹をなぜるということもおこなわれていた。
 菷は神聖なものであるため、跨いだり踏みつけることを忌み、罰があたるなどと考える風習が、各地に残されている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/11/22


舞妓 Maiko 

Jp

 舞妓(まいこ)とは、大体20歳ぐらいまでの芸妓(げいこ、げいぎ)見習いの若い女性である。
 芸妓とは、花街にて唄や踊り、三味線などの芸で宴席に興を添える事を仕事とする女性で、座敷や舞台に上がる時は白塗りの厚化粧をするが、舞妓は同時に日本髪を結い、華やかな花簪を挿す。
 舞妓とは、芸妓になる前の未成年の少女のことで、舞妓として約5年間修行した後、芸妓になる。
 舞妓・芸妓は京都の祇園をはじめとする花街の置屋(おきや)に所属しており、そこから各お茶屋へ送り出される。
 舞妓の始まりは、江戸時代中期の1700年頃、水茶屋で働いていた茶汲女(ちゃくみおんな)や茶点女(ちゃてんおんな)が始まりだと言われている。
 最初は参詣人に茶をふるまう程度だった水茶屋も、やがて茶が酒になり、茶汲女や茶点女が歌を聞かせ舞を見せ、永い年月を経て舞妓、芸妓になったとされる。
 舞妓は、非常に厳しい独特のしきたりや伝統を持つ職業である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/7/10


華月館 Kagetsu-kan Kagetsukan Guesthouse

Jp En

 華月館(かげつかん)は、北海道滝川市内にある市指定文化財で、その成り立ちは大正初期に遡る。
 元々は明治三十(1897)年に建てられた旧御料局舎で、それを大正初期に三浦屋という旅館が払い下げを受け、奥座敷として利用する事となった。
 その後、増改築を受けて和洋折衷の趣のある建物として生まれ変わり、要人宿泊時などの貴賓室として利用されることとなる。
 それからは、長らく各界著名人なども宿泊する有名旅館としての役割を果たし、昭和五五(1980)年、開基90周年を記念した更なる増改築が施された上で、建物は滝川市に寄贈される。
 市は歴史あるこの建物の名称を「華月館」と改め、指定文化財として保存していくこととなった。
 明治から大正期の民間高級住宅の趣を色濃く残し、和洋折衷による重厚さと格調の高さがここが貴賓館だったことを今に伝えている。また館内には宿泊した著名人たちのゆかりの品も展示されている。
 ロマン漂う室内で過ごせば、ちょっとした文豪の気分を味わえるだろう。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/5/10


鋳物 水栓金物(個人邸) Imono Suisen-kanamono(Kojin-tei) Faucet Metalwork (for a private residence)

Jp En

 鎌倉の個人邸の和室にあつらえた水栓金物。和室にしっくりくる水回り。既製品の水栓金物の色を変える事ができないか?という設計者からの相談を受け、自動水栓、排水金物、タオル掛けなど、水回り製品に伝統的着色技法が提案された。
 一般的に「水栓」というとクロームメッキ製の物が多いが、実は空間に合わせてリメイクする事は可能である。和室にはなかった舶来のモノにほんの少し和の技法を取り入れるだけで、和室という日本伝統の空間と一体感をもたせ、それと同時に「今」を過ごすための和室の新たな方向性も表現している。
 硫化着色という技法を使って「洋」を和に引き寄せ、空間の空気を心地よくコントロールした例である。
■ 個人邸 水栓金物
・硫化着色
・設計 城戸崎建築研究室
■プロデュース
 ubushina 立川裕大
[→より詳しい記事を見たい方はこちら]
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2006/12/15


茶道 Sadou Sadou (Tea Ceremony)

Jp En

 平安時代に中国より伝わった茶は、次第に嗜好品として定着。やがてにぎやかな宴会の中で楽しむ茶の湯に対して、簡素な日本の工芸品を使い、精神性を重んじる茶の湯が登場。
 それが「わび茶」すなわち「茶道」の成立であった。安土桃山時代に千利休が遊びの要素をできる限り退け、客人との心の交流を中心とした緊張感のある茶の湯を大成。利休が目指した茶の道は、風情の中に美的な境地や心の満足を探究しようとする精神といえよう。
 「日本の美術工芸の粋は、茶道にすべて内包される」といわれるように、茶道は茶道具や茶室建築、俳諧など広い分野にまたがる総合芸術。「もてなし」と「しつらい」の美学、閑寂や枯淡の境地など、茶道が日本の精神文化に与えた影響ははかりしれない。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2006/11/27


ふすま Fusuma Fusuma (sliding door)

Jp En

 襖の起源は8世紀から9世紀頃。几帳、衝立、屏風、明かり障子など、寝殿造り内部の調度品から、日本独自のものとして生まれてきた。
 11世紀には日本で大和絵が盛んになり、襖や屏風に表現され、初期の防寒の役目から室の装飾的要素が加わり、当時の貴族の風俗に深い関わりを持つようになった。
 やがて16世紀、安土・桃山時代に武家階級の書院造が完成すると、襖は寺院・城郭に絵画芸術の発表の場として役割を果たすことになる。江戸時代には数寄屋造りが住宅様式に入り、襖は広く町民階級にも普及することとなる。襖絵も豪華絢爛さから淡白で質素なものへと単純化されていった。
 現在では、伝統を受け継ぐ表具店の高級襖から気軽に使える壁紙式のカジュアルな襖まで、様々なバリエーションの襖が広く愛用されている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します




床の間 Toko-no-ma Tokonoma (alcove room)

Jp En

  床の間とは、和室の客間の上座に位置する、掛け軸を掛けたり花を飾る場所のことを指す。
 床の間は、日本人の心遣いが表れている場所。もともとは偉い人の部屋で偉い人が畳の面より一段高くなった場所に座るという権威の象徴だったが、時代の流れとともに客人をもてなす場所の象徴へと変化していったのである。江戸時代には、庶民が床の間をつくるのは贅沢だとして規制されていたが、明治時代以降になると客間に床の間をつくるのが一般的になった。現在では掛け軸を掛ける風習も廃れ、畳の部屋でも床の間を省略することも多い。
 しかし、昨今ではデザイナーズマンションなどで部屋の一角に和室の空間が設けられることが増えており、また一部のインテリアグッズの店では、「床の間セット」が人気とか。「和」の心は時代を超えて人々の心を捉えてやまない。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



記事数7件: 1~7 件表示          
NIPPON Kichi - 日本吉 - 日本語に切り替える NIPPON Kichi - 日本吉 - to english

モノ・コト・ミル・ヒトで綴る
日本の美意識。

現在の記事 5444
カテゴリーズ
都道府県
キーワードシャッフル
お気に入り
キーワード検索
閲覧履歴



Linkclub NewsLetter