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2008/4/22


地蔵菩薩 Jizou-bosatsu Jizou Bosatsu

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 地蔵菩薩(じぞうぼさつ)は、仏教における菩薩の一人である。
 サンスクリット語での仏の名を表す梵名(ぼんめい)、クシティガルバが大地の母胎という意味を持つことから、地蔵という名が付けられたという。
 その姿は、剃髪で袈裟を身につけており、右手に錫杖、左手には宝珠を持っている。
 釈迦の入滅後、五六億七千万年後に弥勒菩薩が出現するまでの仏が不在の間、六道を輪廻する衆生を救う菩薩として信仰されている。そのため、六道それぞれの地蔵菩薩を並べて祀った「六地蔵像」を日本各地で見ることが出来る。
 日本においては、浄土信仰が普及した平安時代以降、地蔵菩薩に対する信仰も広がっていき、その後、六地蔵信仰が全国的に広まり、古来より日本にあった道祖神とも習合し、今に至っている。
 菩薩は本来なら如来に次ぐ高い見地の仏だが、地蔵菩薩は「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」としてその地位を退き、六道を自らの足で行脚しながら、衆生の魂を救う旅を続けているという。
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2008/1/8


大豆坂地蔵尊 Oomamesaka-jizou-son Omamezaka Jizo-son

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 大豆坂地蔵尊(おおまめざかじぞうそん)例大祭は、毎年四月に宮城県志田郡三本木町で開催される祭りである。大豆坂地蔵尊は、三本木町の国道4号線沿いにある。明和二(1765)年、放火の大罪を犯し、処刑された者の後世を弔う為に彫刻されたもので、高さ4メートルと日本一の地蔵尊である。
 傍らには子供のお地蔵様を両脇に抱いている地蔵尊もあり、無病延命の子育て地蔵として、子どもの健康や成長を願う家族連れの参詣が多いとされる。
 例大祭では、午前中から稚児行列や地域の団体約二〇〇名が参加する交通安全パレードなどが行なわれる。華やかな装束をまとい、母親と手をつないで晴れやかに歩く子供たちには、沿道から拍手がおこる。
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2007/11/1


応声教院 山門 Ousyou-kyouin sanmon Sanmon Gate at Oshokyoin Temple

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 応声教院(おうしょうきょういん)は、静岡県菊川市中内田にある浄土宗の寺である。本尊は、準国宝の阿弥陀如来像とされる。
 斉衡二(855)年、茲覚大師により、文徳天皇勅願所の天台宗天岳院として創建された。
 後に、浄土宗を改宗した法然上人が、桜ケ池の竜神になったといわれる恩師皇円阿闍利を偲んで阿弥陀如来像を安置し、天台宗を浄土宗に改宗し、天岳院を応声教院に改名したと伝えられる。
 また、京都知恩院末、遠江十二支辰巳霊場としても知られ、阿闍利伝説の縁起書や歯吹阿弥陀如来座像などを所有している。
 石坂を登ると徳川2代将軍秀忠が建立した山門があり、のんべえ地蔵をはじめとした様々な地蔵や、遠州七不思議の一つ、片葉のアシや三度栗が植えられている。
 応声教院は、様々な伝説に彩られた古刹である。
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智満寺 Chimanji Chimanji Temple

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 智満寺は、静岡県榛原郡川根本町にある曹洞宗の寺である。本尊は、八相釈迦牟尼如来、宝冠釈迦牟尼如来、千手観世音菩薩、厄除延命地蔵菩薩とされる。
 寺伝によると、創建は奈良時代で、鑑真の法孫にあたる広智という高僧が草庵を結んだのが始まりとされている。
 一説には、島田市の智満寺の末寺として奥大井に天台教学の拠点として開かれたとの口伝がある。
 延徳3(1491)年、駿河国・洞慶院より回夫慶文禅師を迎え、曹洞宗に改宗開山された。
 平安時代中期以降は、修験道の霊場である山岳寺院として栄え、戦国以後は今川・徳川氏に厚く信仰された。
 智満寺境内の十本杉は樹齢800〜1200年の古樹であり、国指定天然記念物となっている。
 智満寺は、澄んだ空気と絶景の地に建つ古刹である。
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2007/8/30


智禅寺 Chizen-ji Chizenji Temple

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 兵庫県は淡路島にある、弁財天を祀る寺。弁財天は、いわずと知れた七福神のひとり、智恵と芸能の神様である。
 山号を大廣山と号し、高野山真言宗の寺である。創建はまったくの不明だが、南北朝時代の写経本「大般若経」に記録が残ってるほど、歴史は古い。
 本堂は江戸中期に建立されたもので、大如来像、新旧の弁財天が安置されている。弁財天を祀るこの智禅寺は、淡路七福神巡りのひとつであり、年間10万人も訪れ、にぎわいを見せる。特に冬期には1日2千人を超える日もあるという。
 1月7日には初弁天祈願祭、8月23日には千体地蔵流しが行われ、毎年信心深い参詣者たちが祈りを捧げる。
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2007/8/17


庄内神楽 Syo-nai-kagura 

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 神楽は、祭典の時に神前に奉納される歌や舞である。大きく、宮中で行われる雅楽や伎楽の宮廷神楽と一般の神社の神事芸能の里神楽に分けられる。
 庄内神楽は、大龍地区にある愛宕地蔵にある古文書に1778年に、御堂造営の際、神主らによって神楽が奏でられたとある。明治の初期には、同好会的な神楽集団が組織される様になり、現在の神楽座の基となっている。
 庄内には大きく分けると、娯楽性の高い10の庄内地区系と、伝統を重んじる2つの阿蘇野地区系の二流派の神楽座がある。両派とも庶民の神楽として古くから伝承され、比較的に早いテンポにのって勇壮に、時にはユーモラスに舞う里神楽である。
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2007/8/15


象潟 蚶満寺 Kisakata-kanman-ji 

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 蚶満寺(かんまんじ)は曹洞宗の寺院で、秋田県にかほ市象潟町に位置する。
 仁寿三(853)年、慈覚大師により開基されたと伝わり、正嘉元(1257)年、北条時頼により再興された。
 本尊は釈迦牟尼仏、境内には江戸時代の建立とされる山門、地蔵堂などが立ち並ぶ。
 元禄二(1689)年、松尾芭蕉が訪れ、「象潟や 雨に西施が ねぶの花」の句を詠んだ、現在境内には芭蕉の像と句碑が残る。
 近隣一帯は元々、「象潟八十八潟、九十九島」と呼ばれた大小の島々の浮かぶ入り江だったが、文化元(1804)年の大地震により土地全体が隆起し、干潟となった。
 近隣は田園地帯となっているが、当時、蚶満寺二十四世覚林が島を崩すことに反対したおかげで、現在、60余の島跡が残り、その姿を見ることができる。
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2007/8/10


ばら大師 Bara-taishi 

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 四国曼陀羅霊場第五十二番ばら大師永照寺。
 そこは四国各地を巡錫(じゅんしゃく)していた弘法大師の「野宿の聖地」ともいわれている。
 古びれて汚れ、破れた衣をまとった大師は泊めてくれる宿が見つからず、仕方なしに野宿したのがとげのある野ばらの上。その一夜が十日間の苦行のような心境だったため、「この地の里人達もとげで苦しむであろう」と考えた大師がとげを封じ込めたばらが「とげなしばら」になったといわれている。
 今も本堂裏の大師の像の周りに棘のない「とげなしばら」はある。現在では町の天然記念物に指定されていて、町外に持ち出してはならないことになっている。
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