NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/4/11


暖簾(五三桐) Noren(Gosan-no-kiri) 

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 飯屋や居酒屋の入り口に垂れ下がり、時折風になびかれながら、訪れる客を奥へといざなう暖簾。
 普段、何気なく目にする光景であるが、元々は直接風や光が入るのを防いだり、寒さよけとして取り付けられたものであった。
 いつしか、そこに商店の家紋や職業を表す紋があしらわれ、玄関を飾るようになった。
 日本ならではの情緒と風情を漂わすその暖簾が、例えば自宅にあったらどうだろうか。
 「暖簾(五三桐)」は、そうした希望を叶えてくれる品である。
 縦150cm、横84cmと、サイズもちょうど日本家屋の廊下の出入り口等にかけるのに適しており、手染めの風合いがやさしく、程よい。
 その色合いも本来なら白や青など単調なものが多いが、上に赤、
下に藍と茶と趣ある色使いに五三桐の家紋を施すことで重厚な雰囲気をかもし出している。
 「暖簾に腕押し」という言葉があるが、この暖簾には何か重厚な手ごたえを感じられるかもしれない。
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2008/2/12


旗印染 Hatashirushi-zome 

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 旗印染(はたしるしぞめ)は京都で古くから伝わるもので、旗やのぼりなどに固有名の文字や紋章、記号などを染め出す技術のことである。
 文献によると旗は卑弥呼の時代からすでに登場し、のぼりは応仁の乱には使用されていたと記されている。
 技法は型を使ってのりを置き、染めてからのりを落とす型染め(かたぞめ)という方法で文様をうかび上がらせるものである。
 旗印染は非常に繊細な作業と大胆な作業を持ち合わせた、技術の高い染色方法である。中世に活躍した藍染専門の職人たちを称した紺屋(こんや)が作り上げていったものといわれている。
 その後、時代の遍歴とともに旗印染は旗やのぼり以外に風呂敷、ふくさ、印ばんてん、ゆかた、のれんなど、その用途は広がりをみせ、今日までその技術は京都で受け継がれている。
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2008/1/17


のれん 淡雪 Noren Awayuki 

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 「暖簾(のれん)」とは、お店の軒先や出入り口に吊るしたり、日除け、風除け、魔よけなどの目的で吊るされる、布製の垂れ幕のことをいう。
 日本独自の伝統・文化として、昔から家々のいたるところに張られ、特に商家にとってはお店の象徴として、のれんは重要な役割を果たしてきた。
 ショップ「羅工房」では、モダンと古典の融合をコンセプトに、のれんや掛軸、タペストリーなどの和雑貨を、ひとつひとつ手作りで提供している。
 職人の仕事のぬくもりや、自然の恵みの素晴らしさなど、作品にこめられた粋と意気といった和の心が感じとれる。
 「淡雪(あわゆき)」とは、春先にうっすらと積もる、消えやすい雪のことをいう。こののれんは、麻の柔らかい素材に、ほのかに雪化粧した椿の花が上品に描かれており、飽きのこない作品となっている。
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2007/11/8


弓浜絣 Yumihama-gasuri 

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 弓浜絣(ゆみはまがすり)は、鳥取県西部の弓ヶ浜地方に伝わる綿織物で、主な製品に着物地、座布団、のれん、袋物などがある。昭和五〇(1975)年九月、通商産業大臣(現経済産業大臣)より伝統的工芸品の指定を受けた。
 弓ヶ浜半島で弓浜絣の原料となる綿花の栽培が始められたのは江戸時代前期。この半島は「浜の目」と呼ばれ、そこで産出する綿は自家用衣料として綿布に織られていた。その後、藍玉問屋が設けられたことをきっかけに、江戸時代後期には藍の栽培が進められ、米子や弓ヶ浜あたりで「浜の目絣」「浜絣」と呼ぶ絵絣が、農家の婦女子の手によって織られるようになった。明治時代中期に全盛を迎えるが、洋式紡織業の発達に押され衰退。現在は少数の伝統工芸士らによって技術・技法が継承されており、民芸的なあたたかい味わいのある綿織物として異彩を放っている。
 弓浜絣は長年の使用にも耐え、吸湿・保温性に富み、日本の気候風土によく合う。パターン化された柄は線の表情が豊かで、情緒がある。
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2007/9/19


殿様湯跡 Tonosama-yu-ato 

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 殿様湯跡(とのさまゆあと)は、鹿児島県指宿(いぶすき)市西方にある、かつて領主・島津氏が使っていたという湯殿である。市の文化財に指定されている。
 江戸時代、薩摩藩を治めていた島津家の温泉別荘跡で、現存の浴槽は天保二(1831)年、第二七代薩摩藩主・島津斉興(しまづなりおき)によって摺ヶ浜より移設されたもの。
 浴槽は、山川石と呼ばれる加工しやすい凝灰岩を組み合わせて造られており、お湯が4つの湯壺を次々にまわり、適温になるように工夫されている。浴室には洋風のタイルが使われており、大変豪華なものだった事が伺える。
 奥には「湯権現」が祀られており、現在の浴舎の前には「二月田(にがつでん)温泉殿様湯」の石碑が据えられ、代々藩主の名を記した看板や丸に十の字紋を染めた暖簾がかけられている。
 殿様湯跡は、風格ある歴史を偲ばせる史跡である。
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2007/6/29


丹後藤布 Tangofujifu Tango Fujifu (Tango Wisteria Cloth)

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 5月の中頃、山々を美しく彩る藤の花。その藤のつるから取り出した繊維を紡いで織り上げるのが「藤布」だ。丹後地方においては、山間部を中心に1200年以上織り継がれてきた技術であり、京都府指定伝統工芸品にもなっている。
 藤布の歴史は古く、万葉集の中にも「大君の塩焼く海人の藤衣」と、藤布が着用されていたことが詠まれている。また、元弘2(1333)年、鎌倉幕府によって隠岐の島に流された後醍醐天皇が藤の苗木を隠岐に持参されたという逸話もあり、藤を愛した天皇が藤布を身にまとい、都を懐かしんだとも語られている。
 かつては全国各地で庶民の衣料として生産されていたが、今では衣料の他にのれんやタペストリー、帯など装いからインテリアまで多彩な商品が作られ、伝統を現代に活かす取り組みが行われている。
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京都 掛札  Kyoto Kakefuda Kyoto Kakefuda

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 1925(大正14)年創業。京都・四条堀川に店を構える老舗の染物店。代々受け継がれてきた家紋入りの正絹風呂敷や帛久紗(ふくさ)、のれんや旗、幕などのオーダー専門店として営業を続けてきた。しかし、大学卒業後に家業を継いだ三代目の掛札英敬さんが2004年、中村勘九郎(現勘三郎)さんの「十八代目中村勘三郎襲名」の挨拶の品として木綿風呂敷のデザインと制作を担い、翌年に日本の伝統文様をモチーフにした既成の綿の風呂敷を発表したのを機に、社名・店名を「京都 掛札」に変更。さらに家紋をアレンジした木綿風呂敷専用のロゴマークを起用した。
 分業が一般化した今日では、デザインから型彫り、染め、縫製、仕上げ、販売まですべて一軒でまかなう専門店は貴重な存在。それでいて変わることを拒まない柔軟さは老舗の新たなあり方を示唆している。
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2007/1/31


奈良晒 Nara-sarashi Nara Sarashi (bleaching cloth)

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 奈良晒(ならさらし)は、麻織物を白く晒しあげたもの。肌触りがよく、よく汗をはじくと古来より評判。奈良県の伝統的工芸品に指定されている。
 遠く「古事記」の時代に端を発するが、麻織物の一級品としてその名が世に広まったのは、江戸時代はじめの頃。清須美清四郎という名匠が、桃山時代に晒法の改良に成功し、にわかに盛んになったという。 
 その頃は主として僧侶や神官の衣装として用いられてきたが、江戸時代に入り、武士の裃や夏のひとえものとして奈良晒の名は天下に知れ渡った。幕府へも納められ、徳川家の御用品として重用されるなど、興盛をきわめる。
 その清楚で気品のある風合いは、古来より狂言、舞楽衣裳などの生地として好まれてきた。現在は茶巾、正倉院宝物をデザインしたテーブルセンター、のれんなども作られている。
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