NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/2/18


貞照院 Teishou-in 

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 後世の愛知県碧南市発展に繋がったといわれる伏見屋新田(ふしみやしんでん)を、親子二代にわたって開拓したのが三宅又兵衛(みやけまたべえ)という江戸で米穀商を営んでいた人物。その縁者が元禄年間(1688~1704)に草庵を築いた。後に有志が集まり寺としたのが貞照院(ていしょういん)の始まりとされる。
 貞照院の象徴ともいわれる茅葺きの山門は応永年間(1394~1428)に建立され、碧南市に現存する建造物の中では最古のもの。
 二二四一冊の経典が納められている経蔵(きょうぞう)は天明五(1785)年頃に建立されたと伝えられる。毎年夏には大蔵経の供養の後、経典の「虫干し供養」が数日にわたって多くの参詣者達によって行われる。
 貞照院はまた秋の紅葉の名所としても親しまれている。
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2008/2/7


茶室 Chashitsu 

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 茶室(ちゃしつ)の歴史は室町幕府の八代将軍・足利義政が、京都大徳寺の一休禅師の門下、村田珠光(むらたしゅこう)と能阿弥(のうあみ)とその子芸阿弥(げいあみ)孫の相阿弥(そうあみ)の四人とともにそれまでとは違う、茶会の作法を編み出した時にはじまる。四人は広い座敷の中に一丈(十尺四方)の屏風で囲み、茶の道具である台子を前に行う台子手前で茶礼を行った。これが茶室のはじまりである。
 村田珠光の時代は書院風茶室であったが、武野紹鴎(たけの じょうおう)の時代には四畳半の茶室がつくられた。その後、千利休の時代になると屋根の形は入母屋から切妻へと変わり、壁も土壁、格子も細竹の連子と草庵の茶室に変わっていき、さらに、三畳から一畳半の広さで行う侘茶の作法と変わっていった。
 その後江戸時代にかけて活躍した古田織部(ふるたおりべ)が床の間をもつ四畳半台目の席を考案し、徳川将軍家の茶道指南役であった小堀遠州が完成させた。
 茶室とは日本文化が作り出した美と意識の交差する空間である
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2008/2/6


落柿舎 Rakushi-sha 

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 落柿舎(らくししゃ)は、京都嵯峨野の豊かな緑の中に佇む一軒の草庵である。
 江戸期の俳人であり、松尾芭蕉門下の「蕉門十哲」の一人でもあった向井去来(むかいきょらい)が閉居としていた庵で、貞享三(1686)年に造営された。
 落柿舎の名の由来は、庭に実った柿を売る契約を交わし、代金ももらったその翌日、台風で全て落ちてしまった出来事にあるという。
 元禄四(1691)年には芭蕉がこの庵に滞在、「嵯峨日記」を記したともいわれている。
 去来の没後は庵は荒廃し、元の場所も分からなくなっていたが、明和七(1770)年、京都の俳人であった井上重厚が、現在の地に再建した。
 嵯峨野に広がる山と、のどかな田園風景に溶け込むわら葺きの建物は、いつか見たような懐かしい風情を漂わせている。
 去来在宅を訪れる人に知らせていたといわれる蓑と笠が、今も土間の壁に掛けられている。
 庵に赴けば、入り口から見える蓑と笠。どうやら主人は在宅のようである。
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2008/1/8


興正寺 五重塔 Koushou-ji Gojuu-no-tou 

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 興正寺(こうしょうじ)は天瑞円照(てんずいえんしょう)が高野山より訪れ草庵を結び、貞享五(1688)年、尾張二代目藩主・徳川光友より建立が許されたことに始まる。
 総門・中門・五重塔・本堂が南北に一直線に並ぶ、古きを大切にした伽藍(がらん)配置となっている。
 中でも五重塔は、この寺の象徴として広く親しまれている。浄財を資として文化五(1808)年に建立された。
 総高30メートルの高さにして流線美と平均率の妙に勝れており、本瓦葺の軒が精悍な印象である。
 東海地区雄一の木造塔であり、昭和五七年に重要文化財に指定されている。
 毎年一一月中旬~一二月上旬頃になると辺りは紅葉に染まり、沢山の観光客が訪れる。
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2007/12/11


青梅 海禅寺 Oume Kaizen-ji 

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 青梅市二俣尾にある海禅寺(かいぜんじ)は、辛垣山(からかいやま)の南麓にある。本尊は釈迦如来で、本山を永平寺と総持寺とする曹洞宗の寺で知られる。
 寛正年間(1460~1465)この地に草庵ができたのが始まりである。当時、奥多摩を支配していた三田氏の菩提寺として、三田綱秀が天文年間(1532~1554)に再興したが、その後三田氏は二俣尾の辛垣城で北條氏照により滅ぼされ、兵火により全山焼失した。その後、天正三(1575)年に復興され勅願所に列せられ、江戸時代には寺領一五石を拝領し、京に末寺を持つほどに栄えた。
 参道の途中に青梅線が走るようになってから、道路わきに慶長一七(1612)年建立の総門が移築された。青梅線の踏切を渡ると、石垣が続いており、季節になると朱色のつつじが斜面を彩る。
 石段の上には、寛政五(1793)年に建てられた山門がある。また本堂は火災により焼失し、平成四(1992)年、復元し再建された。
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2007/11/1


智満寺 Chimanji Chimanji Temple

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 智満寺は、静岡県榛原郡川根本町にある曹洞宗の寺である。本尊は、八相釈迦牟尼如来、宝冠釈迦牟尼如来、千手観世音菩薩、厄除延命地蔵菩薩とされる。
 寺伝によると、創建は奈良時代で、鑑真の法孫にあたる広智という高僧が草庵を結んだのが始まりとされている。
 一説には、島田市の智満寺の末寺として奥大井に天台教学の拠点として開かれたとの口伝がある。
 延徳3(1491)年、駿河国・洞慶院より回夫慶文禅師を迎え、曹洞宗に改宗開山された。
 平安時代中期以降は、修験道の霊場である山岳寺院として栄え、戦国以後は今川・徳川氏に厚く信仰された。
 智満寺境内の十本杉は樹齢800〜1200年の古樹であり、国指定天然記念物となっている。
 智満寺は、澄んだ空気と絶景の地に建つ古刹である。
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2007/10/23


源空寺 Genkuu-ji 

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 源空寺(げんくうじ)は、東京都台東区東上野にある浄土宗の寺である。本尊は、円光大師、阿弥陀如来。
 天正一八(1590)年、道阿霊門上人が湯島に草庵を結び、上人の徳を慕って多くの信者が集まったのが起源とされる。
 慶長九(1604)年、徳川家康によって湯島に寺領を賜わり、堂宇を寄進し、開基された。
 明暦の大火で焼失し、浅草へと移転して諸堂が再建されたが、その後も何度も焼失している。しかし、深い信仰により随時再興され、今日に至っている。
 江戸初期の町奴・幡随院長兵衛(ばんずいんちょうべえ)、天文学者高橋至時、その弟子で日本初の実測地図を作った伊能忠敬、西洋の画風を取り入れた江戸末期の文人・画家谷文晁など、江戸時代に活躍した人々の墓が多くある。
 源空寺は、江戸時代の文学・科学の空気を伝える古寺である。
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2007/10/12


信松院 Shinshou-in Shinshoin Temple

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 信松院(しんしょういん)は、東京都八王子市台町にある曹洞宗の寺である。本尊は、釈迦牟尼仏。八王子七福神のひとつで、布袋尊を祀る。
 天正一八(1590)年、信松尼が心源院より現在地に建っていた草庵に移ったのが創建とされる。
 信松尼は、武田信玄の六女である松姫である。
 松姫は永禄四(1561)年に生まれ、七歳の時に織田信長の嫡子で当時一一歳の信忠と婚約したが、その後、武田、織田家が不和になり、約束は果たされなかった。
 松姫は織田軍の侵攻から八王子に逃れ、二二歳の時、心源院に随翁舜ト山和尚を訪れ出家した。
 境内には松姫尼公の墓があり、市の史跡となっている。また、木製の軍船があり、毎年七月にはほおずき市が開催される。
 信松院は、武田信玄の娘・松姫ゆかりの寺である。
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