NIPPON Kichi - 日本吉

記事数10件: 1~8 件表示     >>     >|  

2007/9/11


波伝谷獅子舞 Hadenya-shishi-mai 

Jp

 波伝谷獅子舞(はでんやししまい)は、宮城県南三陸町の戸倉波伝谷地区に昔から伝わる伝統行事であり、春祈祷との別名も持つ。
 執り行っているのは、契約講と呼ばれる相互扶助による寄り合いの人々である。
 毎年の三月第二日曜の早朝から行われる、この地区独特の邪気祓いの儀式であり、かつては旧暦の二月一五日に行われていたものである。
 儀式当日の早朝から、獅子頭を朝日に直面させて遥拝した後、東の村境へ移動してお札を竹に挟んで立て、御幣を飾った榊を先頭に地区の家々を巡りはじめる。
 家主は必ず豆腐を一丁用意しておき、訪れた獅子はこれを噛んで吐き出し、酒で清める。
 そうして家々を回り、西の村境に到着すると、海岸に榊を立てて太鼓を打ち鳴らして石を投げつける。獅子はこの時、大きく口を開いて邪気を吐き出し、榊が倒れると同時に口を閉じる。閉じられた口は翌年まで、絶対に開かない。
 頑なに閉じられた口は、派伝谷に邪気を寄せ付けない、強い意志を物語っている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/8/10


岩手 榊山稲荷神社 Iwate sakakiyama-inari-jinjya 

Jp

 岩手県盛岡市中心部の北側に位置する北山にある神社。
 起こりは江戸時代、盛岡城内に置かれた3つの神社のひとつとして創建された。榊山稲荷神社は本丸西側の曲輪(くるわ)に祭られたが、戊辰戦争、明治維新によりその歴史を閉じなければならなくなった。
 社伝によると、ある夜初代宮司、荒川清次郎氏が榊山稲荷より「再興せよ」とのお告げを受けて、私財を投げ打って昭和五(1930)年に再興したとある。
 荒川氏は、旧藩主南部氏の所有であった北山の地を譲り受け、お宮を建てた。現在は「盛岡開運神社」の別名を持ち、地元民に親しまれている。しだれ桜が参道を飾り、春には花見がてら散策を楽しむ人々でにぎわう。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/7/31


田林神楽 Tabayashi-kagura Tabayashi Kagura

Jp En

 宮城県丸森町に存在した丸森城。
 その、今は亡き城の本丸跡にある田林愛宕神社に伝わる伝統芸能が、田林神楽(たばやしかぐら)である。
 現在の島根県にあたる出雲国でいち早く始まったとされる十二神楽が伝えられたものとされており、演目や演舞の方法なども、典型的な十二神楽である。
 舞いは、舞台の清めと神の降臨のために、素面で榊や太刀などの採物をもって舞う採物舞(とりものまい)と、神話などを題材として面をつけ、舞踊劇風に舞う神楽能の二つに分けられる。
 演目は猿田彦から始まり、「猿田彦」や「うずめ」、「田の神」など、須佐之男命の「出雲切り」までの十二座の神々の功績を称える舞が行われ、国や自然の平穏と作物の豊穣を祈り、災厄を払って幸福を祈願する神楽として舞われる。
 日本を創りし神々の演舞は、荘厳さと優美さが混在した古来の信仰を今に伝えている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します




榊流永代神楽 Sakaki-ryuu-eidai-kagura Eidai Kagura in the Sakaki Style

Jp En

 榊流永代神楽(さかいりゅうえいだいかぐら)は、現在の宮城県仙台市宮城野区に鎮座する青麻神社(あおそじんじゃ)に伝わる榊流青麻神楽が、宮城県大亀地区に移入、派生した伝統芸能である。
 永代神楽として大亀地区に伝わったのは弘化五(1848)年といわれ、以後、現在まで毎年四月の第三日曜日に、大亀神社とも称される鹿島天足別神社(かしまあまたりわけじんじゃ)で、奉納されている。
 言葉や詞を用いないのが特徴の神楽で、そのすべてを動作で表現する京都流の優雅な舞としても知られており、衣冠装束に面をつけ、大太鼓と小太鼓、七孔の笛のみのシンプルな奏楽で、ヤマタノオロチ退治のほか、海幸彦と山幸彦の舞など、古事記を主とした神話を題材とした十四の舞が受け継がれている。
 他地区の人は踊ることは出来ない、という伝統を守り続け、二百年に渡る今もなお、大亀地区二三世帯だけに受け継がれる、まさに秘伝の舞である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/4/24


観瀾閣 Kanrankaku 

Jp

 観瀾閣(かんらんかく)は、広島県呉市下蒲刈町三之瀬北町に存在する邸宅であり、国の有形文化財に指定されている。
 榊谷仙次郎は土建の王様という異名を持つ、大連に本店を置き、満鉄の敷設工事で名を馳せた榊谷組の創業者であり、満州土木建築業協会で理事長を勤めた人物として知られる。
 観瀾閣は、その榊谷仙次郎が昭和一0(1935)年に、別荘として建てた邸宅である。
 建築面積は289平方m、木造2階建ての瓦葺屋根で、外壁はタイル張りにされている。
 下蒲刈島の海岸に沿った立地と、中国の磚造建築の意匠を取り入れた特異な外観を持ち、内部の建具や欄間に用いられた技能の水準も高いのが特徴である。
 観瀾閣は、珍しくも華麗な外観を誇る、建築物である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/4/9


笑い講 Warai-kou 

Jp

 笑い講は、山口県防府市台道小俣地方で行われている神事である。
 約800年前から伝わるとされる大歳祭で、年来の実りへの感謝、来年の豊作祈願、今年の不幸や悲しみを忘れるために、三度、大声で笑いあうという珍しい風習。
 毎年12月の第一日曜に、小俣八幡宮の氏子、二十一戸の講員が毎年交換となる頭屋の家に集まり、直会の後に神官が「笑いの神事」を宣言した後、大榊を持った二人が対面し、大声で三度笑いあう。
 「神人合一」の笑いが出るまでは、講の長老がやり直しを繰り返させ、最後に全員が大笑いをして祭事は終了する。
 市指定無形民俗文化財、古来の伝統を受け継ぐ奇祭として現在に受け継がれている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/3/19


館林城跡 Tatebayashi-jyou-ato Tatebayashi Castle Ruins

Jp En

 館林城は、群馬県館林市に所在する、戦国時代から徳川時代の争乱の舞台になった城である。別名、尾曳(おびき)城とも言う。
 尾曳城の名は、築城主とされる赤井照光が子ぎつねを助けたところ、お稲荷様の化身の白きつねが現れ、尾を曳いて城の配置を教えてくれたという言い伝えに由来する。
 築城年は定かではないが、15世紀とされる。記録によると、文明三(1471)年に上杉軍がこの城を攻略した戦乱についての記述が最古となる。
 その後、戦国時代に越後の上杉氏、甲斐の武田氏、相模の北条氏などの、三つ巴の攻防を経て、天正十八(1590)年の徳川家康の関東入りに伴い、徳川四天王のひとり、榊原康政が城主となる。江戸時代には江戸から東北方面への交通の要所として、また将軍を輩出した地として重視され、江戸幕府の重鎮を務めた七家の居城として栄えたという。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/2/26


小峰城 Komine-jyou 

Jp

 盛岡城、会津若松城とともに東北三名城に挙げられる白河小峰城は、源頼朝が奥州・藤原氏を滅ぼした時に従軍した結城朝光を祖先とする結城親朝が1340年、小峰ヶ岡に築城したのが始まり。
 戦国時代まで結城氏が領有し、江戸時代になり丹羽長重が初代藩主として入城。4年の歳月をかけ築城した。その後、七家(丹羽、榊原、本多、奥平松平、結城松平、久松松平、阿部)21人の藩主によって統治され、その中には飢饉の時に餓死者を出さなかった徳川吉宗の孫・松平定信もいる。最終的には1867年に二本松藩主の丹羽家が管理していたが、戊辰戦争において、白河藩は藩主がいないまま、新政府に対抗して奥羽列藩同盟に加入し抗戦。 
 1881年4月〜7月の約100日、新政府軍との熾烈な戦いが繰り広げられ、白河城は落城し焼失した。永らく石垣だけの状態が続いていたが、1991年に三重櫓という、実質的に天守の役割を果たす建物を正確に復元。1994年には、前御門も復元している。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



記事数10件: 1~8 件表示     >>     >|  
NIPPON Kichi - 日本吉 - 日本語に切り替える NIPPON Kichi - 日本吉 - to english

モノ・コト・ミル・ヒトで綴る
日本の美意識。

現在の記事 5444
カテゴリーズ
都道府県
キーワードシャッフル
お気に入り
キーワード検索
閲覧履歴



Linkclub NewsLetter