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2008/3/12


宮地手漉和紙 Miyaji-tesuki-washi 

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 熊本県八代市(やつしろし)では、江戸時代から伝わる「宮地手漉和紙(みやじてすきわし)」がつくられている。
 慶長五(1600)年、関ヶ原の戦いの後、柳川藩主の立花宗茂(たちばなむねしげ)が、肥後藩主の加藤清正に預けられた。その際、柳川藩の御用紙漉きであった矢壁新左衛門(やかべしんえもん)が、加藤家の申し付けにより紙漉きを始め、以来、八代の宮地地区に流れる中宮川で和紙づくりが盛んにおこなわれるようになった。
 その後、檀紙(だんし)や奉書紙(ほうしょがみ)などの装飾紙から、障子紙などの日用紙まで様々な種類の和紙がつくられた。加藤家、細川家、松井家と受け継がれ、御用紙としても重宝され、最盛期では百軒近くの紙漉きが和紙づくりに励んでいた。
 現在でも、大きな鍋釜で煮た楮(こうぞ)と、トロロアオイを原料として、流し漉き法で紙漉きの技術が受け継がれている。
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2008/3/11


紙垂 Shide 

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 注連縄(しめなわ)や玉串、祓串、御幣などにつけて垂らし、特殊な裁ち方をして折った紙を「紙垂(しで)」という。「四出」とも表記され、単に「垂」と書かれる事もある。
 かつては木綿(ゆう)などの布が用いられていたが、現在は奉書や美濃紙、半紙などの紙が使われており、裁ち方・折り方は伊勢流、白川流、吉田流などの代表的な流派の他に、神社による伝統の裁ち方・折り方もある。垂らされる数によって二垂、四垂、八垂などと表わされ様々な形式があるが、いずれも白衣を着用して身を清めた上で、心を落ちつけ紙垂を作り上げる。
 注連縄に垂らして用いる時は、神域や祭場などの聖域と外界とを隔てるものとして、玉串、祓串、御幣などに用いた時は祓具としての意味を持つなど、それぞれの用途が存在する。
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2007/9/11


細川紙 Hosokawa-shi 

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 細川紙(ほそかわし)は、古来より貴族や武家などで用いられる高級な奉書紙(ほうしょかみ)が、現在に受け継がれている漉き紙である。
 原料は椿のみであることや伝統的な製法と製紙用具によること、古来より伝承されている細川紙の色沢や地合などの特質を保持することなどが厳密に求められており、故にそうした製作技術は昭和五三(1978)年に国の重要無形文化財に指定されている。
 漉き紙の起源は古く、およそ千三百年前、当時の武蔵国に渡来した高句麗人により伝えられたといわれている。
 現在は埼玉県のほぼ中央にある小川町で盛んに漉かれている細川紙だが、本来は紀州高野山麓の細川村で漉かれていた奉書紙が、江戸時代初期に江戸にも程近い小川周辺に伝わったといわれており、紙の名前もそのまま、細川の名を受け継いでいる。
 紙の地合がしまっていて、毛羽立ちが生じにくく、きわめて強靭なその紙面は、紙にも品を求める多くの通人たちに今も愛されている逸品である。
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2007/6/18


岩野市兵衛(人間国宝) Iwano Ichibee Ichibee Iwano (Living National Treasure)

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 昭和八(1933)年、福井県今立町生まれ。越前奉書製造で有名な人間国宝、八代目岩野市兵衛の長男として生まれる。九代目の自身も平成十二(2000)年に人間国宝に認定され、親子二代での人間国宝受賞となった。
 先代の市兵衛氏の漉く奉書は、広く内外の版画家から支持されピカソも愛用していたという。
 職人気質は父譲り、毎日ひたすら紙漉きを続けて六十余年、ただただいい紙を、という一念で仕事をしてきた。氏の漉く紙は腰が強く、どうやっても裂くことができないくらい丈夫。画家の精密な筆先でも絵の具が滲むことはない。
 葛飾北斎の極薄の版画用紙を漉いたこともある。復刻版画はバレンを何百回もかける。それに耐える紙を漉くのは難しいが、「挑戦するときは職人の血が騒ぎますね」と氏は穏やかに笑う。根っからの職人魂は、父をも超えた。
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2007/5/1


福田忠雄 Fukuda Tadao 

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 福井県今立郡今立町に伝わる伝統工芸品「越前和紙」の伝統工芸士。
 昭和五十三(1978)年、伝統工芸士に認定される。2000年には、福井県指定無形文化財に認定。
 越前和紙の歴史は古く、今から千五百年前に、岡太川の上流に美しい姫が現れ、村人に紙漉きの技術を教えたと言う伝説がある。
 正倉院にある奈良時代の文書には、「越の紙」という記述が残り、江戸時代には越前奉書として幕府や福井藩の庇護を受け、広く発展を遂げた。
 氏が持つ技法「墨流し」は800年前から伝わり、氏ともう一人のみが伝える秘伝。紙の上に幾重にも重なる墨の模様は美しく、財布や人形などの加工に用いられている。
 「完璧なものを残しておけばなんとかなる」と、伝統の技法を多くの作品に残している。
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2007/1/30


越前奉書 Echizen-housho Echizen-housho

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 「奉書」とは、将軍や上皇の意志(上意)を下のものに下達するための文書のこと。この「奉書」のために江戸時代には各藩で紙が漉かれたが、とくに越前の奉書は日本一と評判だったという。
 良質の手漉きの和紙は、媒体として千年以上の時をくぐりぬけられる。このことは今に伝わる文書が実証しているとおり。
 鎌倉時代からその質でお墨付きを得ていた越前の和紙は、戦国時代から信長、秀吉、家康と時の権力者の保護を受け、ますます技術が発展、すぐれた製品がたくさん生まれた。
 腰が強くて丈夫、破れにくいことから、明治時代以降は日本画や浮世絵の復刻版画にも使われている。
 越前奉書の第一人者、岩野市兵衛氏(人間国宝)の漉く紙は腰が強く、どうやっても裂くことができない。その高い品質の秘密は、越前の水と空気、なにより手間を惜しまない古来の手作業、それに尽きるという。
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2007/1/9


阿波和紙 Awawasi Awawashi Paper

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 阿波和紙は、阿波(徳島県)の麻植郡山川町を中核として漉かれた紙で、地元特産の藍を使った染紙が多く作られた。
 阿波和紙の始まりは、1300年ほど前、朝廷に仕えていた忌部族がこの地に入り、麻や楮を植えて紙や布の製造をした記録が古語拾遺(807年)に見られる。
 江戸時代に入り、寛永十三(1636)年、藩の政策として製紙業に力を入れはじめ、農家の副業に紙づくりを奨励した。阿波藩の藩札や奉書、仙画紙などの御用紙の他、特産の藍を使った藍染和紙により全国にその名が知られた。
 その後は明治二十三年のパリ万国博へ出品されるなど繁栄し、紙すきの戸数も明治の最盛期には合計700戸を数えた。
 現在は日常生活での必需品は洋紙へと移行し、和紙が創り上げてきた伝統的生活文化は、日々の暮らしから離れつつあると言える。
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2006/12/19


内山紙 Uchiyama-gami Uchiyama Paper

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 長野県の北部にある内山では、昔から和紙漉きの技術が発達してきた。「内山紙」と呼ばれるその和紙は、特に障子紙として厚く丈夫で色焼けしにくいと、大変人気がある。
 内山和紙の起源は不明だが、寛文元年(1611年)に高井郡内山村(現木島平村内山)の萩原喜右衛門が美濃で技術を習得し、この地に紙漉きを伝えたと言われている。以来、地元で産出される楮(こうぞ)を蒸して皮を剥いだ後、雪の上に広げ日光で晒す「雪晒し」など、独特の技術を作り上げてきた。
 原料である楮(こうぞ)は繊維が太く長くて強靭なので、特に障子紙や表具用紙、美術紙、奉書紙などに適している。雪国の伝統を今に伝える内山紙の現在の生産中心地は、飯山市瑞穂地区。90余人の職人たちが、400年の伝統の技を守り続けている。



 
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