NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/10/22


村雲御所 瑞龍寺 Murakumo-gosho Zuiryuu-ji Murakumo-gosho Zuiryuu-ji Temple

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 日蓮宗唯一の門跡寺院である村雲御所瑞龍寺(むらくもごしょずいりゅうじ)。今は滋賀県の八幡山の山頂にある。
 文禄五(1596)年、豊臣秀吉より切腹を命じられた、わが子秀次の菩提を弔うために、秀吉の姉、日秀尼(にっしゅうに)が創建したのが始まりである。
 この時、日秀尼は後陽成天皇から京都嵯峨の村雲の地と瑞龍寺の寺号を賜るのであるが、その後も宮家や摂関家からの入寺があったため、門跡寺院となり、村雲御所とも呼ばれるようになった。江戸時代には、嵯峨から西陣に移り、今は西陣織会館前に「村雲御所跡」の碑が立っている。
 昭和三七(1962)年、この寺の復興に生涯をかけた一二世貫首・日英尼は、秀次ゆかりの近江八幡城本丸跡への移転を決意し、現在の地に移った。
 遠くに鈴鹿連山の美しい山並み、南は近江の町並み、そして東には琵琶湖を一望できる。移築された本堂や庭園は、その後門跡たちの手によって整えられ、開かれた寺として、人々を迎え入れてくれる。
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2007/3/22


高野山 金剛峯寺 Kouyasan Kongoubu-ji 

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 金剛峰寺は、和歌山県伊都郡高野山町高野山に所在する。全国3600ヶ寺におよぶ高野山真言宗の総本山である。
 金剛峰寺の名称は、もともと高野山一帯の寺の総称で、ここは青巌寺と呼ばれていた。文禄二(1593)年、豊臣秀吉が亡き母の菩提寺として建立、文久三(1863)年に再建。その後明治時代に寺の名前を「金剛峰寺」と改め、総本山が置かれた。
 檜皮葺きの大屋根を持ち、東西54メートル、南北63メートルの大主殿(県の重要文化財)のほか、別殿、新別殿、奥殿、新書院、茶室などが並ぶ。大主殿の襖絵は狩野派の作。秀吉の怒りに触れ、豊臣秀次が切腹したとされる「柳の間」もある。日本で一番広い石庭、蟠龍庭は2400平方メートルの広さを持つという。
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2007/3/13


二股城 Futamata-jyou Futamata Castle Ruins

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 二股城は、静岡県浜松市二俣町にあった城である。
 築城者は定かではないが、1520年代には二俣昌長が城主となっていた。
 1568年、遠江に進出した徳川家康の城となる。以降、武田氏との間で、城を巡って獲り獲られたりの激しい攻防が続く。
 1579年、家康の長子信康が武田方と内通していたと疑われ、信長により家康の妻・築山殿と信康に処罰が命ぜられる。この際、信康は二俣城で切腹となった。
 1590年、豊臣秀吉により堀尾宗光が城主となったが、1600年、移転により廃城となる。
 現在は、きれいに整備された公園になっており、石垣程度しか残っていない。近くには徳川信康の墓もある。
 二股城は、信康の悲劇を彩る、天然の要塞である。
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2006/12/15


千利休 Sen-no-rikyuu Sen no Rikyuu

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  安土桃山時代の茶人。1522年、堺生まれ。商人である田中家に生まれた彼の幼名は与四郎。
 若年より茶の湯に親しみ、わび茶を尊ぶ武野紹鴎に17歳で弟子入りした。織田信長が堺を直轄地とした時に茶頭として雇われ、後に秀吉にも仕える。1585年の禁中茶会にあたって、町人の身分では参内できないため、居士号「利休」を勅賜される。
 「茶聖」と呼ばれる利休の偉業は、「わび茶」の完成にある。中国から伝わり、それまで富裕層の遊興に過ぎなかった茶の湯を、日本の美意識を結晶化した「茶道」へと昇華させた。
 極限まで無駄を省いた空間、自然をとりこんだ美意識、瞬間の出会いを大切にする「一期一会」などの視点は、日々、生死に向きあう武将たちの魂を震わせた。
 1591年、茶人としての名声の絶頂にあった利休は秀吉の逆鱗に触れ、切腹により、70歳の生涯を遂げた。
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