NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/9/14


【環】 Kan The Character for Cycle, Ring, Surround

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 環境の環。その形がなかなか深い意味を語っています。上の部分は目です。その下に衣と○があります。○は玉。この三つの要素を含む字体のほかに、さらに強調のために玉偏(たまへん)をつける字体もあります。玉偏自体は三つの玉を貫く紐の形です。
 この字は実は古代の葬儀、死者の復活思想、信仰と関係があります。上の目は開いているので、死者の復活を願う象徴です。古代には死者に玉の賜物を副葬品として添える習慣があったのです。この字はその玉を衣服の襟元に置いた形です。玉を死者の口に含ませることもあり、それは「含」という字になりました。
 白川静先生の著作、『孔子伝』などにもしばしば出てくる荘子の『荘子(南華真経)』に、こういう様々な古代の習慣がよく取り上げられています。もちろんむしろ否定的に。例えば、『荘子(南華真経)』外物篇に道徳的よりどころであるはずの『詩経』と『禮経』の墓と副葬品などの詳しい記述を頼りに、墓を盗掘したり、死者に添えた玉を奪おうとする儒者のことが風刺的に描かれています。
 また白川先生が、日本の代表的な哲学者である西田幾多郎には、漢字の世界をある意味で哲学化した荘子の影響がかなり見られると指摘されているように、そういう背景から見ると漢字には古今を結ぶ一面があります。
 人類の生死に関わる環境。健全な環境の保持を考えるにふさわしい字ではないしょうか。
 
■ 環・金文(きんぶん)
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2007/2/12


鶴見古墳 Tsurumi-kofun Tsurumi Ruins

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 国指定史跡「川部・高森古墳群」(宇佐風土記の丘の古墳群)は、6基の前方後円墳を中心として、周辺に約120基で構成される。それぞれの前方後円墳は地形的には独立した場所に営まれ、その方向もバラバラである。前方後円墳以外の墳墓は耕作などによって墳丘を失い、現状では墓と認識できないものが多いが、前方後円墳を中心に、このように多数の周溝墓が集中する遺跡は大分県内ではここだけ。九州内においても特徴的な遺跡で、規模も宮崎県の西都原古墳群(約320基)に次ぐ。
 「鶴見古墳」は、赤塚古墳に始まる川部・高森古墳群の中で、最後に造られた前方後円墳で、6世紀の中頃に築造された。この古墳は、赤塚古墳の被葬者から代々にわたって宇佐地方を治めた首長の系列を伝える最後の古墳。また、古墳時代後期の葬送の典型的な一例として重要な位置を占めている。
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2007/1/26


上杉家廟所 Uesugi-ke-byousyo Uesugi Clan Mausoleum

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 山形県米沢市にある、上杉家の墓所。
 上杉家歴代藩主の廟所で、初代謙信公を中央にしてその両側に御遺骸、遺骨を収めた、12代までの藩主の廟が並んでいます。
 廟は2代から8代までは社造りで、材質もケヤキを用い、柱は丸柱となっています。9代から12代までの廟は10代藩主鷹山公の考案による宝形造りで、材質もスギやヒノキを用い、柱は角柱と簡素になり、いずれも上杉家の家風がよく表れている。
 謙信公の遺骸は、甲冑をつけ甕に納められ、越後春日山(現新潟県上越市)から会津(現福島県会津若松市)を経て米沢城へ移され、明治9年に現在の場所に移葬された。昭和59年1月「米沢藩主上杉家墓所」として国指定史跡となった。 
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2007/1/25


こうもり塚古墳 Koumoriduka-kofun Koumoriduka Archeological Site

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 国指定史跡、「こうもり塚古墳」。六世紀後半に自然の丘陵を利用してつくられた全長約100メートルの前方後円墳だ。
 「こうもり塚古墳」の名は、こうもりが棲みついたことから付けられた。横穴式の石室は全長19.4メートルと、奈良県の石舞台古墳の石室に匹敵する大きさだ。長い羨道とその奥の玄室とから成っている。玄室には家の形の大きな石棺が納められている。この石棺は井原市野上町産の浪形岩(貝殻石灰岩)を材料とした、くり抜き式の石棺。ほかにも陶棺や木棺が納められており、後期古墳に一般的な、複数埋葬であったことが窺われる。
 この古墳は、大きな墳丘や内部の石室、石棺などに見られるように、多くの労働力を集められるほどの勢力を誇った支配者層の墳墓であることを示しているといわれる。
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野方遺跡 Nokata-iseki The Ruins of Nokata Village

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 野方遺跡は、福岡県福岡市西区野方にある、弥生時代後期から古墳時代にかけての集落跡である。
 標高17〜20mの扇状地にあり、南北600m、東西200mの南北に細長い台地にある。
 弥生時代には大小2つの溝を巡らし、大きい環濠には住居が10軒程度たてられていた。小さい環濠の中には高床式倉庫が建てられ穀物等を貯蔵していた。
 古墳時代になると300基以上の住居が建てられた。墓地は住居から離れ、住居と墓地を区分けしていたことがわかる。
 環濠からは、土器、石器、鉄器に混じって、サメ、タイ、スズキなどの魚類や貝類、鳥類、動物の骨が出土しており、石棺からは鏡、玉、太刀、管玉、ガラス玉等が出土している。
 野方遺跡は、古代日本の営みを想像出来る、歴史的で感慨深い場所である。
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金隈遺跡 Kanenokuma-iseki Kanenokuma Ruin

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 金隈遺跡は、福岡県福岡市博多区にある墳墓遺跡である。
 標高30mの丘陵上に、甕棺墓348基、土壙墓・木棺墓119基、石棺墓2基が発見された。
 甕棺墓では小児用の数が圧倒的に多い。残された人骨の一部には抜歯の風習がみられた。
 金隈遺跡は、紀元前2世紀頃から西暦2世紀頃まで、約400年に渡って使用された弥生人達の共同墓地の跡である。しかも、副葬品や埋蔵物に、鏡などの権力者が保有していたと見られるものが全くないことから、一般弥生人、つまり庶民達の墓地であることが確認された。
 現在史跡公園として整備され、展示館内では、弥生時代の甕棺墓や土壙墓が発掘された姿のまま見学できる。
 1972年、国の史跡に指定される。
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法華堂跡 Hokkedou-ato The Ruin of Hokkedo

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 法華堂跡は、神奈川県鎌倉市西御門にある源頼朝の墓塔である。
 法華堂は元々頼朝の守り本尊を祭っていた場所であった。正治元(1199)年、頼朝が亡くなるとこの場所に葬られ、やがて法華堂と呼ばれるようになった。
 以来、法華堂は頼朝の墓所として厚い信仰を集めた。
1217年、和田義盛が反乱を起こした時、将軍実朝が避難したのは法華堂であった。
 宝治元(1247)年、三浦の乱では、開幕以来の功臣・三浦一族500人の自害の場となった。堂はその後山の下に移され、現在はそこに白旗社が建っている。
 後世その跡地に建てられた供養塔が、現在は源頼朝の墓塔とされている。今の墓塔は近年新しく建て直されたものである。
 法華堂跡は、日本の武家政治の基礎を築いた頼朝が偲ばれる場所である。
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