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2008/9/29


瞰望岩 Ganbou-iwa 

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 瞰望岩(がんぼういわ)は、別名インガルシとも呼ばれ、アイヌ語で「見晴らしの良い所」を意味する。北海道遠軽町のシンボル的な存在となっている。町名である遠軽(えんがる)の由来もこの言葉からきているとされる。
 瞰望岩周辺の丘陵には広大な公園があり、春には山桜や芝桜が辺りをピンク色に染め、夏はヒマワリが咲き誇る。
 ひとたび高さ約80mの岩の頂上に登ると、360度見渡す限りの大パノラマが広がり素晴しい眺望がのぞむことができる。町のあらゆる所からその姿を望む事が出来る瞰望岩は、その昔アイヌの人々が集落同士で戦った古戦場としての悲しい伝説が残る場所でもある。
 北海道自然百選に指定されていて、頂上には開拓記念碑が建てられている。
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2007/10/31


一関城 Ichinoseki-jyou Ichinoseki Castle Ruins

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 天正年間(1573〜1591)末期、豊臣秀吉の奥州仕置によって葛西氏が滅んだ後、一関は豊臣家臣の大名・木村氏を経て伊達氏が領有した。
 江戸幕府の開府の後は、慶長九(1604)年に伊達政宗が叔父である留守政景を一関に移し、さらに寛文年間(1661〜1672)には、政宗の10男・宗勝が入ったが、伊達騒動により宗勝は土佐に配流となった。天和二(1682)年、田村建顕が岩沼から移封となり、以後11代続いて明治を迎えた。
 本丸は千畳敷という標高約90メートル、100メートル×50メートルの長方形である。本丸と同一レベルに続く丘陵に空堀が1カ所認められ、本丸以外は適度な落差で階段状に各郭が配されていたと思われる。
 千畳敷北東に虎口があり、南東には若干の高さの方形があって矢倉などの施設が想像され、西には小山があり脇に田村神社が奉られている。
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2007/10/12


片野の鴨池 Katano-no-kamoike Katano-kamoike

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 石川県加賀市片野町にある、広さ一・五四ヘクタール、深さ三・六メートルの池。ラムサール条約登録の湿地である。石川県指定の天然記念物。
 周囲は水田に囲まれているが、これらの水田は水底が低く作ってあり、秋になり水をせき止めると水没する。つまり片野の鴨池と一体化して、さらに大きな池のようになる。
 ここに毎年一〇月になると、たくさんの渡り鳥が越冬のために北からやってくる。その種類と数は日本一の規模といわれている。
 また、鴨を利用した米作りも行われている。
 鴨は餌をとるためにこの水田にやってくる。糞をするのでそれが有機肥料となり、雑草を食べてくれるので、除草剤を使なくてもよい。鴨と人が共棲する米作りであるが、近年は冬季は乾田化する農家も増え、鴨の数も減ってきているのが実情だ。
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2007/9/25


御火葬塚 Go-kasou-zuka Gokasozuka (Cremation Mound)

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 御火葬塚(ごかそうづか)は、島根県隠岐郡海士町中里にある、後鳥羽上皇を火葬にして埋葬した場所である。
 鎌倉時代の承久三(1221)年に、承久の乱にて鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた後鳥羽上皇は、隠岐に配流されて海士の源福寺で18年を過ごし、延応元(1239)年、六〇歳で失意のうちに他界した。
 後鳥羽上皇の遺体は源福寺の勝田山で荼毘に付され、遺骨は一部京都に持ち帰られ、他は源福寺北部の丘陵であるこの地に埋葬されて廟殿が建てられた。その山稜が、現在の御火葬塚である。
 隣接地には後鳥羽上皇を祭神として祀る隠岐神社が建っており、神社前の歴史民俗資料館には上皇にちなむ品々が陳列され、承久の変の歴史に触れる事が出来る。
 御火葬塚は、鎌倉の昔が偲ばれる史跡である。
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2007/9/13


齋藤氏庭園 Saitou-shi-teien Saito Family Garden

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 齋藤氏庭園(さいとうしていえん)は、宮城県石巻市河南町前谷地にある景勝地である。国の名勝に指定されている。
 石巻平野の北西部に位置する庭園は、近代における東北三大地主として知られる齋藤氏の第9代当主・善右衛門有成により、明治時代後期に作られた。
 本邸部分に所在する庭園は、丘陵の斜面を背にして清楽亭・無一庵などの建物を景観の中心に置き、周囲に平庭、園池を配している。
 斜面麓には宝泉窟(ほうせんくつ)と呼ばれる深い岩窟があり、ここから生じる湧泉は園池の水源ともなっている。
 また、庭園内にある宝ヶ峯縄文記念館はカヤぶきの建物で、宝ヶ峯遺跡から発掘された縄文時代後期の土器などが展示されている。
 齋藤氏庭園は、近代の庭園のうちでも特色ある庭園として名高い、美しい場所である。
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田尻 大崎八幡神社 Tajiri Oosaki-hachiman-jinja Osaki Hachiman Shrine in Tajiri

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 田尻にある大崎八幡神社(おおさきはちまんじんじゃ)は、仙台市八幡町の大崎八幡神社、古川江合の八幡神社、岩出山の八幡神社の本家で知られ、一千年の歴史を持つ由緒ある神社である。
 神社から北に続く丘陵地は、奈良時代から平安時代にかけて大和律令国家が設けた新田柵(にったのさく)の跡とされている。
 天喜五(1057)年の前九年の役で、源頼義、義家の父子が奥州征伐の際、安倍頼時、貞任を攻め、田尻八幡北部にある天狗ケ岡で石清水八幡を祀り勝利を祈願した。その後、安倍氏を滅ぼし凱旋の途中、この地と胆沢、栗原の三箇所に石清水八幡を勧請したのがはじまりとされている。
 この神社は大崎氏の崇拝が厚かったため、正平一六(1361)年に社殿を再興し、大崎八幡と名のるようになった。
 その後、伊達政宗が大崎八幡神社を敬い、岩出山に移し、さらに仙台城下に華麗な権現造りの社殿を造営した。尚、神社は伊達家によって元のこの地に再建された。
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2007/9/11


宮城 旭山 Miyagi Asahi-yama 

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 旭山(あさひやま)は、宮城県の北部、北上川と鳴瀬川の間に広がる仙北平野のほぼ中央に位置する、標高174mの丘陵である。
 豊かな水田地帯に囲まれた、ゆったりとした大地の膨らみは、全山が芝生に覆われており、奈良にある若草山にも似た山容を呈している。
 宮城県内でも有数の桜の名所として知られており、シーズンになれば、ソメイヨシノやヤマザクラ、ツツジなどが咲き乱れ、訪れる人々を楽しませてくれる。
 山頂まではおおよそ800mの登山道も整備されており、ハイキングにも最適な山である。
 天気のいい日には、山頂から遠く太平洋や松島を一望することもでき、金華山島や栗駒山、船形連峰、蔵王連峰などの雄大なパノラマを余すところなく堪能することもできるだろう。
 近くには宮城県十七寺にも数えられる名刹箱泉寺や京都清水寺と同じ様式で建設された観音堂も見られ、散策にももってこいの場所である。
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2007/8/29


高鍋城址 Takanabe-jou-shi 

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 高鍋城址(たかなべじょうし)一帯は舞鶴公園として整備され、二の丸表門が公園の正門にあたる。
 元々は財部城(たからべじょう)と呼ばれ、奈良時代に柏木左衛門尉が創築したと伝えられるが定かではなく、斉衡年間(854~56)に宇佐八幡宮の神官であった土持氏が入り、以後室町末期まで六百年にわたり土持氏の居城であった。
 後に高鍋城と改称されるのは、江戸時代の三代藩主秋月種信の頃で、この時大々的に城の拡張と城下町の整備が完成した。
 高鍋城は標高74mの丘陵に築かれ、丘の中腹に本丸、一段下った平地に二の丸、更に下ったところに三の丸を配した縄張りで、丘陵上には三層の櫓が築かれていた。その姿が羽ばたく鶴に似ていることから別名「舞鶴城」とも呼ばれる。
 二の丸跡の石段を上ると、本丸の正門であった長峰門跡を経て本丸跡にでる。政庁と奥御殿があった箇所に本丸政庁跡の標柱が立ち、本丸跡から更に上ると、見事な石垣が部分的に残っている。
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