NIPPON Kichi - 日本吉

記事数4件: 1~4 件表示          

2007/2/8


今市石畳 Imaichi-ishidatami Imaichi Stone-Paved Road

Jp En

 今市石畳(いまいちいしだたみ)は、その昔、参勤交代道路であった肥後街道の一部。昭和四十七(1972)年に県史跡に指定された、貴重な交通遺跡である。大分県の野津原町に位置する。
 野津原町は、慶長七(1601)年から肥後領になり、現今市市や野津原地区は、幕末まで肥後藩の宿場町となっていた。街道にはお茶屋が軒を連ね、物資が行き交う拠点として栄えたという。その当時の面影を残すのが今市石畳。幅6メートルの道の中央に幅2メートル、長さ660メートルにわたり切石が整然と並べられ、往時の大名行列の姿を彷彿とさせる。
 今市石畳は、毎年8月に行われる「篭かきレース」でも有名だ。今市が昔宿場町だったことからその時代を再現し、趣向を凝らした衣装を身にまとい、篭を担いで駆けめぐるものである。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/1/30


朝夷奈切通 Asaina-kiridooshi Asaina-kiridoshi

Jp En

 朝夷奈切通(あさいなきりどおし)は、神奈川県鎌倉市十二所と横浜市金沢区の間にある古代の要路であり、国指定の史跡である。
 鎌倉にはいくつかの切通し(防衛の為の人工的要路)がある。朝夷奈切通は、鎌倉七口と言われた切通しの一つであり、鎌倉と金沢・六浦を結ぶ要路であった。
 仁治二(1241)年、執権北条泰時が自ら指揮し、朝比奈三郎義秀が一夜で切り開いたという伝説から、この名が付いた。
 作られた背景には、当時の北条氏と三浦氏との争いがある。北条氏が三浦半島を通らないで房総に出るためには、六浦港へ連絡する道が必要だったのである。
 朝夷奈切通は、往時の雰囲気を色濃く残しており、鎌倉時代の文化と生活を我々に伝えてくれる古道である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/1/25


備中松山城 Bicchu-matsuyama-jo Bicchu-matsuyama Castle

Jp En

 「備中松山城」は、市街地の北端にある臥牛山(がぎゅうざん)にそびえる山城で、現存する山城としては日本一高い所にある城(天守・標高430メートル)として有名だ。
 創建は鎌倉時代。有漢郷(現高梁市有漢町)の地頭秋庭重信が大松山に城を築いたのを起源とし、天和三(1683)年に水谷勝宗によって3年がかりで修築され、今の天守の姿になった。
 城のある臥牛山は山陰と山陽を結ぶ要衝の地にあったため、戦国時代は激しい争奪戦が行われ、城主交代が目まぐるしく繰り返されたという。
 備中松山城は日本三大山城のひとつに数えられ、山頂の城址に建物が残っているのは、三大山城の中では備中松山城だけであり、現存天守閣も残っている。白い漆喰塗りの壁と黒い腰板のコントラストが美しく、青い空によく映える。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/1/15


石のモザイク Ishi-no-mozaiku Designs in Stone

Jp En

 一言で「石」といってもいろいろだ。大きい石、小さい石、その辺りにころがっている見向きもされない石もあれば、石の魅力に引かれ、身に付けたくなるようなものもある。
 石は文化を表す象徴にもなる。イタリアなどでは、石を積み上げた建物が多い。地震というものがなく、その歴史は石文化の国である。
 日本では城の土台に石積みを使った。また「日本の道百選」などでは、「石畳」でできた道が選出されたりしている。
 人々の足元を守るため地を強固なものにした、先人の知恵である。
 しかし、その目的はそれだけだろうか?よく見るとその形には不規則な辺を組み合わせたものや、規則的な四角形を並べたもの、丸い石などさまざま。実用的というよりは、芸術的な雰囲気さえ感じられる。
 石のアート(モザイク)、こんなところにも日本人の遊び心がよく表れている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



記事数4件: 1~4 件表示          
NIPPON Kichi - 日本吉 - 日本語に切り替える NIPPON Kichi - 日本吉 - to english

モノ・コト・ミル・ヒトで綴る
日本の美意識。

現在の記事 5444
カテゴリーズ
都道府県
キーワードシャッフル
お気に入り
キーワード検索
閲覧履歴



Linkclub NewsLetter