NIPPON Kichi - 日本吉

記事数126件: 1~8 件表示     >>     >|  

2008/8/14


大平一里塚 Oohira-ichiri-zuka 

Jp

 一里塚(いちりづか)は、慶長九(1604)年、江戸幕府が全国の街道に、一里、3.9キロメートル毎に道の両側に設置し、旅の道しるべや休息地としたものである。約9メートル四方に土を盛り、主として榎(えのき)を植えた。
 大平(おおひら)一里塚は、東海道岡崎と藤川の宿場の間に位置し、塚の大きさは、高さ2.4メートル、横幅6.7メートル、縦右7.3メートル、縦左8.5メートルのひし形をしている。こんもりとした塚に大きな榎が葉をゆらしていて、よく目立っている。塚のみが残っているものは多いが、このようにほぼ現存をとどめている一里塚はめずらしい。
 北側の塚は南側の塚より大きかったが、昭和三(1928)年の道路改修で壊され、代わりに秋葉山に登る人たちの安全を守る常夜灯が建てられた。南側の塚はそのまま残され、昭和一二(1937)年に国指定の史跡となった。
 塚中央の榎は昭和二八(1953)年の台風で倒れ、現在の榎は2代目のものである。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/8/7


山王祭り Sannou-matsuri 

Jp

 東京都千代田区永田町・日枝神社(ひえじんじゃ)は、江戸時代に江戸城の守護神として幕府の崇敬を受けた神社である。その由緒ある日枝神社の神幸祭が山王祭(さんのうまつり)である。
 この祭りは「天下祭り」と呼ばれ、山車が江戸城に入ることが許されていた。徳川家光をはじめ、歴代の将軍も上覧した「天下祭り」を山王祭は受け継ぎ、江戸三大祭のひとつに数えられているが、さらに京都・祇園祭、大阪・天満まつりとともに、日本三大祭りのひとつにもなっている。
 祭りは一年ごとの子、寅、辰、午、申、戌年の六月一五日に行われる。最盛期には六〇台以上もの神輿や山車が繰り出され、大行列となって飾りの豪華さを競い合ったという。
 現在も、最盛期には及ばずとも華麗な格式ある神輿や山車が町中を練り歩き、江戸っ子の祭りとして大変な賑わいを見せる。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/2/7


お吉が淵 Okichiga-fuchi 

Jp

 お吉が淵(おきちがふち)は静岡県下田の生沢川にある深淵である。唐人お吉(とうじんおきち)で有名なお吉が身を投げたことからこの名がつけられた。
 評判の芸妓であったお吉は、一七歳の時、幕府の策で恋人の鶴松との仲をさかれ、日本初のアメリカ領事館の総領事タウンゼント・ハリスの世話役を命じられた。ハリスの帰国後は唐人に仕えた女と嘲笑され、一時は、結婚して小料理屋も開いたが、やがて、病苦と貧困の果てにこの淵に身を投げたといわれる。
 身寄りのなかったお吉の亡骸は近くの宝福寺の住職が供養し、宝福寺はお吉の菩提寺となった。
 昭和三〇年代に、付近の人々によりお吉堂が建立され、宝福寺のお吉の墓も新しくされた。
 毎年お吉の命日には祭りが開かれている。また、宝福寺のお吉の墓には今でも芸能人をはじめ多くの人が訪れている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/1/22


青梅大祭 Oume-taisai Ome Taisai

Jp En

 青梅大祭(おうめたいさい)は、東京都青梅市にて行われる関東地方屈指の例祭である。市内住江町にある住吉神社において四月二十八日に神事が行われた後、五月二日~三日に12台の山車が青梅街道を巡航する。
 青梅大祭は、江戸時代には神輿のようなもので祭礼が行われていたが、明治時代に、祭礼を組織する氏子五町が有名な江戸の天下祭で使用されていた山車を買い付けて曳き回すようになった。
 山車と山車がすれ違う時の江戸神田囃子の流れをくむ囃子の激しい叩きあい、競り合いは見ごたえがあり、独特とされる。祭りの期間中は、市内が祭りの熱気に包まれる。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/1/15


一之宮 貫前神社 Ichinomiya Nukisaki-jinja 

Jp

 上野國一之宮。延喜式神名帳では名神大社に列する。
 一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ)の開基については諸説あるが、安閑天皇の元(531)年頃と言われ、一般に多胡碑(たごひ)などで知られる甘良(甘楽)の谷の帰化人集団が祀ったのが始まりと見られている。
 赤城神社から一之宮の称号を譲られたと言われ、渡来系氏族による古代上毛野國征服を表すとも伝えられる。
 もとは貫前神と抜鉾神(ぬきほこのかみ)の二社二神であったが、両社が一社と混同されるようになったので明治に入り貫前神社と名乗り、戦後の社格廃止に伴い一宮貫前神社と改称したと言われる。
 参道を上り正面の鳥居をくぐって急な石段を下ったところに社殿が有る、という特異な構えが特徴で、勅額鳥居の東隣等に神宮寺跡の石垣が残る。社域は約九万平米。総門から見下ろす朱塗りの社殿と社叢の調和には息を飲む。
 寛永一二(1635)年に徳川幕府によって造営された、本殿、拝殿、楼門は重要文化財に指定されている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/11/5


旧奥州街道 Kyu-oushuu-kaidou The Oshu Kaido Road

Jp En

 旧奥州街道(きゅうおうしゅうかいどう)は、江戸日本橋を起点として千住から陸奥白川を中心とした、奥州を通る脇街道もふくめた街道の総称である。
 徳川家康が天下統一を行った後、幕府は宿駅制度を設けて、江戸日本橋を起点とした五街道を整備し、道中を奉行に管理させた。
 奥州街道は、その五街道の一つで、江戸時代初期には主に東北諸藩の参勤交代の交通・連絡に用いられた。
 江戸中期には蝦夷地開発、江戸末期にはロシアからの蝦夷地防衛のために往来量が増加した。
 明治六(1873)年、陸羽街道と改称され、現在は大部分が国道4号となり、並行して東北自動車道、八戸自動車道が通っている。
 旧奥州街道は、江戸時代の人々にとり、奥州を旅する時に欠かせなかった中心街道である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/10/24


献上博多織 Kenjou-hakataori Kenjo Hakata Textiles

Jp En

 博多織物は、鎌倉時代に端を発する七〇〇年の歴史を持つ伝統工芸品。
 「献上博多織」は、博多織を代表する柄だ。江戸時代に筑前藩主・黒田長政が幕府に博多織を毎年献上した際に用いられた柄を総称してこう呼ばれ、現在も受け継がれている。献上柄は3つの柄で構成され、仏具として使用する「独鈷」と「華皿」をモチーフにそれぞれを意匠化した柄と縞柄が特徴だ。
 博多織は固く締まって、しかもしなやかな地合が持ち味。織り機による伝統芸能は貴重であるが、現在後継者問題が懸念されている。  
 献上博多織の第一人者の小川規三郎氏は平成15年に「献上博多織」の重要無形文化財の保持者に認定。九州産業大学の芸術工芸学科の客員教授を務めるほか、「博多織工業組合」に属し、全国のシンポジウムや講演会のパネリストとして伝統芸能の再生と発展に力を注いでいるという。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/10/12


福山城 Fukuyama-jyou Fukuyama Castle

Jp En

 福山城は、広島県福山市丸之内にあった城である。日本100名城に選定。国指定史跡である。
 元和五(1619)年、徳川家康のいとこである初代福山藩主、水野勝成が、徳川幕府からの命で西国鎮護の拠点として築城したのが福山城である。
 以後福山藩の藩主は、水野氏、松平氏、阿部氏と続き、明治維新に至るまで藩主の居城であった。
 廃藩置県後、明治六(1873)年に廃城となった。
 国宝であった天守と御湯殿は、昭和二〇(1945)年、米軍の空襲により焼失した。昭和四一(1966)年、天守、月見櫓、御湯殿が同時に再建されている。
 現存する伏見櫓、筋鉄御門(すじがねごもん)は、国の重要文化財に指定されている。
 福山城は、江戸時代建築の、最も完成された形の名城として、今にその姿を残している。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



記事数126件: 1~8 件表示     >>     >|  
NIPPON Kichi - 日本吉 - 日本語に切り替える NIPPON Kichi - 日本吉 - to english

モノ・コト・ミル・ヒトで綴る
日本の美意識。

現在の記事 5444
カテゴリーズ
都道府県
キーワードシャッフル
お気に入り
キーワード検索
閲覧履歴



Linkclub NewsLetter