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2008/7/1


深野棚田 Fukano-tanada 

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 三重県松坂市深野地区にある深田棚田(ふかのたなだ)は、まさに石の芸術を思わせるような、美しい棚田である。石垣の段数は約一二〇、積み上げられた石の数は三〇〇万個以上もあるといわれている。その類稀な風景は、日本の棚田百選のひとつに選ばれているほどである。
 石垣で造られた棚田は西日本に多く見られる風景である。
 江戸時代、少しでも藩の石高(こくだか)を増やすためにと、特に西日本の地域では山間地にまで田んぼが作られたという。そのため、急な傾斜などにも耐えられるよう、石垣造りの棚田が多く造られたといわれている。
 また、稲作には「水はけがよく水利が良い土地」が適しているため、棚田は稲作に適していたとされる。
 城塞を思わせるような、自然石が織りなす風景は圧巻であり、先人の苦労も偲ばれる。
 現在は地元の人々が保存会を結成し、今も美しいままに維持・管理されている。
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2008/6/30


津城(安濃津城) Tsu-jou(Anotsu-jou) 

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 津城(つじょう)は、三重県津市丸の内にあった城である。別名・安濃津城(あのつじょう)とも呼ばれる。
 永禄年間(1558~1569)に、長野氏の一族・細野藤敦(ほそのふじあつ)が安濃・岩田の両河川の三角州に小規模な安濃津城を構えたのが、始まりとされる。
 北は安濃川、南は岩田川に挟まれ、これらを天然の大外堀としていた要害である。
 以後、何人か城主を替え、慶長一三(1608)年、藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石をもって入城した。高虎は城の大改修に着手し輪郭式の城郭に変貌させ、城下町を整備し、明治維新まで藤堂氏の居城となった。
 現在、城跡はお城児童公園となっており、北側の本丸石垣には、築城時の石垣に修築時の石垣が継ぎ足された様子が伺える。
 津城は、戦国時代を生き抜いた歴戦の城である。
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2008/6/26


津和野城址 Tsuwano-joushi 

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 島根県の「津和野城址(つわのじょうし)」は、津和野盆地の南西部に位置する標高367mの山上の山城址である。
 津和野城としての築城は古く、元寇襲来の後、沿岸防備の為に弘安五(1282)年、吉見頼行が地頭として赴任し、永仁三(1295)年から築き始めた。当初は三本松城と呼ばれており、正中元(1324)年に完成した。その後、一四代に亘って吉見家が居城していた。
 戦国時代から江戸時代にかけて幾度か城主が変わるが、元和三(1617)年に亀井政矩が入城すると亀井家が明治まで一一代続く。
 津和野城は、長州に対する目付役として監視をしていたので、戦国時代の城郭形式が江戸時代もそのまま使われ、石垣もそのまま残っている。
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2008/5/14


高岡城 Takaoka-jou 

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 広大な堀を持つ城として有名な高岡城(たかおかじょう)は、加賀藩二代目藩主の前田利長の隠居城として慶長一四(1609)年に築かれた。城の設計にはキリシタン大名として有名な高山右近が関わっている。
 利長はその五年後に病気で亡くなったため、未完成のまま一国一城令が出された元和元(1615)年を迎え、廃城となった。その後は加賀藩の蔵として利用され、人々の立ち入りは禁止されたという。
 面積の約三割が堀になっていて、掘り出された土は土塁として利用されており、今も随所に石垣などと共に残されている。
 明治八(1875)年に高岡古城公園として開放されて以来、珍しい水濠公園として、また四季を通して古城の趣を満喫できるため、憩いの場として市民に親しまれている。
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2008/5/2


福岡 大野城址 Fukuoka Oono-joushi 

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 福岡の大野城址(おおのじょうし)は、福岡県太宰府市宰府にある城跡である。国の特別史跡に指定されている。
 天智四(665)年、大宰府の北の守りとして、標高410mの四王寺山、別名・大野山に、朝鮮から渡来した技術者の指導で約8kmにわたる土塁や石垣で山や谷を囲み、その中に城を造ったとされる。
 大野城は古代の朝鮮式山城であり、守りやすく攻められにくい山の地形を利用して造られた城で、大野城には普通の城で見られる天守閣や櫓、本丸や二の丸・三の丸、濠などは作られておらず、城主の住む所でもなかった。
 現在は、城跡に門址、桁行10m余の倉庫群の礎石、井戸などが、また四王寺川の谷間には城の石垣が残っている。
 福岡の大野城址は、時代を感じさせる朝鮮式の古城跡である。
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2008/5/1


越前小丸城 Echizen-komaru-jou 

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 福井県越前市五分市町の小高い丘にある越前小丸城(えちぜんこまるじょう)。
 長篠の合戦において、織田軍の武将として鉄砲隊を率いて活躍した佐々成政(さっさなりまさ)が、信長の命を受け、越前に与力として入った際に築城。わずか4年の居城ののち、越中富山に移ったため、廃城となった。その短い居城期間から、築城が未完成で終わったという説もある。
 いまでは、本丸を囲む堀の一部と内部の石垣、道を挟んだ場所に造られた櫓(やぐら)の台とみられる土塁のみが残されている。
 僅かな遺構に刻まれた、小丸、北小丸、古城、的場といった文字から、広範囲に城郭設備が整っていて、繁栄していたと想像されている。
 佐々成政、不破光治(ふわみつはる)と共に織田信長の「府中三人衆」と呼ばれた前田利家(まえだとしいえ)が、越前国の一向一揆を鎮圧した様子を記した文字瓦が、昭和七(1932)年、掘削中の城の石垣から見つかったことでも有名である。
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若狭小浜城 Wakasa-obama-jou 

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 古来より日本海側の入り口の港として栄えて来た福井県小浜市。海の正倉院とも呼ばれる小浜には、奈良時代から伝わる多くの文化財が集まっている。
 慶長六(1601)年、戦国武将京極高次(きょうごくたかつぐ)は関が原の戦いでの功績を高く評価され小浜藩を立藩し、若狭小浜城(わかさおばまじょう)を蜘蛛の浜に築城した。後に蜘蛛の浜が雲の浜と改称されたことから、小浜城は雲浜城という異名も持つ。
 その後酒井忠勝(さかいただかつ)が入城し、天守の建立を手掛け、寛永一九(1641)年に堂々たる小浜城が完成した。
 明治四(1871)年の大火によって城郭の大部分を焼失してしまった小浜城、今は石垣が残るのみとなっているが、見応えは充分である。
 大火の後わずかに残された本丸跡には、小浜神社が建立され、忠勝が祀られている。
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2008/3/31


観音寺城跡 Kannonji-jou-seki Kannonji Castle Ruins

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 観音寺城跡(かんのんじじょうせき)は、滋賀県蒲生郡安土町石寺にある城跡である。国指定の史跡となっている。
 築城年代は明らかでないが、標高432・7mの繖山(きぬがさやま)、通称観音寺山に近江の守護・佐々木氏累代が居城し、同氏が六角と京極の二流に分かれてのちは、惣家六角氏の居城となった。
 永禄一一(1568)年、六角義賢・義治父子の時、上洛を目指す織田信長に進攻されて落城、以後は廃城となった。
 ほぼ全山を城域として、いたるところに石塁・土塁をめぐらし、大小無数の郭を構築した中世山城として全国有数の規模をもつ。
 山頂付近の西国札所の観音正寺周辺には巨石を組んだ石垣などが残り、ハイキング道としても楽しめる。
 観音寺城跡は、かつての佐々木氏・六角氏を偲ばせる史跡である。
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