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2008/8/14


舞木廃寺塔址 Maigi-haijitou-shi 

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 廃寺の名前は伝わっておらず、所在する地域名が舞木町であることから、舞木廃寺塔址(まいぎはいじとうし)で呼ばれている。
 出土遺物から奈良時代に建立されたと推測されているが、境内の建物の配置などを含め、実際にどのような寺であったのかはまだ不明だ。ただ残っている塔の礎石(そせき)を見る限り、当時この地方では最大の寺院だったと考えられている。
 塔の心礎は直径1.6mのほぼ円形の花崗岩(かこうがん)。中央には舎利容器を安置する直径15cm、深さ4cmの舎利孔が彫られている。その周囲には幅35cmの柱座が環状に彫られており、複雑で精美な加工となっている。
 採集されている資料は、瓦製の蓮弁・瓦塔片・軒丸瓦・丸瓦・平瓦などの出土遺物だけである
 遺跡として、昭和四(1929)年に国重要文化財に指定された。
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2008/7/11


両部大経感得図 Ryoubudaikyou-kantokuzu 

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 両部大経感得図は、保延二(1136)年に制作された、藤原宗弘(ふじわらのむねひろ)の作品です。縦179×横143cmの大きさで、素材は絹地を使用し、絹本著色(けんぽんちゃくしょく)という技法で描かれています。
 両部とは、「大日経(だいにちきょう)」と「金剛頂経(こんごうちょうきょう)」のことを指します。両部大経感得図では、真言宗の祖師である善無畏(ぜんむい)や、龍猛(りゅうみょう)が両部を手にする場面が描かれています。また、本作品に、五重塔など、日本の景観が描かれているのは、制作者の藤原宗弘が、インドの風景を知らなかったためであると考えられています。
 平安時代に作成された作品では、大きな破損もなく、制作年、制作者が共に判明している珍しい作品だといえます。
 もともとは、奈良県天理市の内山永久寺にありましたが、明治の廃仏毀釈により同寺は廃寺となり、現在は大阪市都島区にある藤田美術館に収蔵されています。
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2008/6/18


愛宕念仏寺 Odagi-nenbutsu-ji 

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 延喜一一(911)年に、醍醐天皇の勅願により比叡山の僧・千観(せんかん)により中興されたと伝えられているのが「愛宕念仏寺(おだぎねんぶつじ)」である。ここでは愛宕を「あたご」ではなく「おたぎ」と読む。
 奈良時代後期、聖武天皇の娘の称徳天皇がここに愛宕寺を建てたが、平安時代初期、鴨川の洪水で流され、廃寺となった。その後復興を命じられたのが千観だった。
 江戸時代中期の建物である朱塗りの仁王門は、鎌倉時代に造られたとされる阿・吽の仁王像が奉られている。また、重要文化財である本堂は、鎌倉中期の再建で、大正一一(1922)年に堂宇の保存のため、嵯峨の地へ移築された。本尊は「厄除千手観音」で、平安時代より厄除けの寺として厚く信仰されてきた。
 また、境内には石造り千二百羅漢といわれる凄まじい数の地蔵様がある。昭和五六(1981)年、寺の復興を祈願し、賛同した一般の参拝者が作り上げたもので、子供を抱いた地蔵様、酒を持った地蔵様、楽器を吹く地蔵様など、表情豊かに並んでいる。
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2008/5/12


入鹿神社 Iruka-jinja 

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 奈良県橿原市(かしわらし)の小綱町(しょうこちょう)にある「入鹿神社(いるかじんじゃ)」は、蘇我入鹿(そがのいるか)の邸宅があった場所と伝えられており、ご祭神は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)と蘇我入鹿である。
 蘇我氏は、古墳時代から飛鳥時代に活躍した氏族である。聖徳太子の死後、蘇我氏は天皇家をしのぐほどの勢力を持つようになったため、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や中臣鎌足(なかとみのかまたり)が、中国から帰国した留学生とともに、天皇中心の中央集権国家の建設を目指し、蘇我氏を倒した。
 このように日本書紀には、蘇我蝦夷(そがのえみし)や入鹿が、大化元(645)年の「大化の改新」による政治政策で討滅されたとあるが、地元では今でも神として大切に崇められている。
 昔は普賢寺(ふげんじ)という寺があり、入鹿神社の神宮寺として建立された寺だったが、明治初めに廃寺となった。大日如来を納めた本堂だけは、大日堂として残されており、国の重要文化財に指定されている。
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2007/12/11


青梅 天寧寺 Oume Tennei-ji 

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 青梅市根ヶ布の天寧寺(てんねいじ)は、曹洞宗の寺院で、北陸の永平寺にならった回廊式の伽藍配置である。
 天慶年間(938~946)平将門によって開創された。後に兵火にあい、堂宇は焼失、廃寺となり、その後青梅周辺を治めていた勝沼城主・三田氏宗が、文亀年間(1501~1504)に開基した。江戸時代に入ると、末寺三七を数える大きな寺へと成長した。
 山門は宝暦九(1759)年の建築で、左右には二天像の多聞天と増長天の像がある。
 その山門を入って左側にある鐘楼の鐘は、大永元(1521)年、氏宗の子である政定が奉納した大梵鐘で、三田氏の貴重な金石文とされ、国の重要美術品として知られる。
 本堂は宝永四(1707)年に造られたもので、中央に祀ってある木造の釈迦如来坐像は、青梅市指定の有形文化財となっている。
 また、本堂の裏側には霞ヶ池があり、かわせみなどの楽園として知られる。この池が源となり霞川が始まり、入間川、荒川、そして東京湾に注がれている。
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2007/10/11


金剛山大隆寺 Kongouzan-dairyuu-ji 

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 宇和津町の金剛山大隆寺(こんごうざんだいりゅうじ)は、野川の龍華山等覚寺、今は廃寺となった安国山大通寺とともに、宇和島藩伊達家の菩提寺であった。
 慶長一三(1608)年、伊勢国の武将富田信高(とみたのぶたか)が、関ヶ原の戦いでの功績を徳川家康に認められ、伊予国宇和島藩一二万石に加増移封された。信高は父・一白の菩提を弔うために禅寺を建立。後に宇和島藩第五代藩主・伊達村候(だてむらとき)がこの寺を再興し、簾方大和尚を招いて金剛山大隆寺と改めた。
 墓には五代村候、七代宗紀(むねただ)、九代宗徳(むねえ)の藩主のほか、藩主夫人や多くの重臣も葬られている。境内には市の名勝に指定された庭園があり、経蔵や茶室、書院と見事な調和が図られ、訪れる人々の目を楽しませている。
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2007/9/19


竹田神社 Takeda-jinja 

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 竹田神社(たけだじんじゃ)は、鹿児島県南さつま市加世田武田にある神社である。祭神は島津忠良。
 文明一七(1485)年、保泉寺として島津国久が創建し、永禄七(1564)年、日新寺として島津忠良が再興した。
 明治時代になって廃仏毀釈により廃寺となったが、明治六(1873)年、島津忠良を祀る竹田神社として改宗・再興された。
 日新公とも言われる島津忠良は、かつて三州統一の道を切り開いた戦国時代の薩摩領主で、その境内にあるイヌマキの並木には、人生について詠まれた訓話など、四七首のいろは歌の歌碑が点在しており、市民の憩いの場となっている。
 毎年七月二三日には六月灯が行われており、水車からくりや稚児舞、二才舞(にせまい)などが披露されている。
 竹田神社は、薩摩領主・島津氏に深いゆかりのある神社である。
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一乗院跡 Ichijou-in-ato 

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 一乗院跡(いちじょういんあと)は、鹿児島県南さつま市坊津町にある寺跡である。県の文化財に指定されている。
 敏達天皇一二(583)年、百済の僧・日羅が仏教弘布のため建立したのが一乗院であり、その末寺は薩摩大隅の国内四七ヶ寺、坊津でも一八ヶ寺あったと言われる。
 日羅上人は自ら仏像三体を刻み、上中下の三坊舎を設けて安置した。坊津の名称は、これに由来する。
 長承二(1133)年、鳥羽上皇により上皇の願所となり、「如意珠山一乗院」の称号を賜る。
 延文二(1357)年に、成円上人が寺を島津氏の協力を得て中興し、天文一五(1545)年には後奈良上皇の願所となった。
 しかし明治二(1869)年、廃仏毀釈によって廃寺となり、現在は仁王石像一対と歴代上人の墓が残るのみとなっている。
 一乗院跡は、古の繁栄が偲ばれる史跡である。
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