NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/6/25


佐敷城 Sashiki-jou 

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 佐敷城(さしきじょう)は熊本県葦北郡の標高85メートルの丘に建てられていた山城である。
 南北朝時代、薩摩の名門篠原氏一族の佐敷氏による築城と伝えられている。後の天正九(1576)年にはこの地を攻略した島津義久の配下となったが、天正一五(1582)年には加藤清正の領地となり加藤重次が城主となった。しかし、江戸時代の元和元(1615)年の幕府の一国一城令により廃城。その後も佐敷城跡は要所として佐敷番代が置かれていた。
 現在城跡である山頂部分はきれいに整備され、当時のままの石垣が復元されている。山頂からは360度、パノラマ風に周囲の風景を見渡すことが出来る絶景の地でもある。
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2008/5/20


宇土城 Uto-jou 

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 宇土城(うとじょう)は熊本県宇土市にあった城である。
 築城は鎌倉時代に宇土氏によってであるが、豊臣秀吉から戦の功績により加藤清正とともにこの地方を分割して支配していたキリシタン大名小西行長の居城として有名である。小西行長は宇土城を改修し南蛮の技術も取り入れ本格的な城とした。しかし行長は、関ケ原の戦いに敗れ処刑され、後には加藤清正の城となったが、江戸時代、慶長一七(1612)年に幕府の命により廃城となった。
 築城時には三層の雄大な天守閣が建てられていたが、現在は石垣と堀の一部を残すだけである。本丸跡は城山公園となり広場には小西行長の銅像が建てられている。
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2008/3/12


宮地手漉和紙 Miyaji-tesuki-washi 

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 熊本県八代市(やつしろし)では、江戸時代から伝わる「宮地手漉和紙(みやじてすきわし)」がつくられている。
 慶長五(1600)年、関ヶ原の戦いの後、柳川藩主の立花宗茂(たちばなむねしげ)が、肥後藩主の加藤清正に預けられた。その際、柳川藩の御用紙漉きであった矢壁新左衛門(やかべしんえもん)が、加藤家の申し付けにより紙漉きを始め、以来、八代の宮地地区に流れる中宮川で和紙づくりが盛んにおこなわれるようになった。
 その後、檀紙(だんし)や奉書紙(ほうしょがみ)などの装飾紙から、障子紙などの日用紙まで様々な種類の和紙がつくられた。加藤家、細川家、松井家と受け継がれ、御用紙としても重宝され、最盛期では百軒近くの紙漉きが和紙づくりに励んでいた。
 現在でも、大きな鍋釜で煮た楮(こうぞ)と、トロロアオイを原料として、流し漉き法で紙漉きの技術が受け継がれている。
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2008/2/7


おばけの金太 Obake-no-kinta Obake no Kinta

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 「おばけの金太(きんた)」は、熊本県熊本市に伝わる郷土玩具である。
 からくり人形の頭だけの張り子玩具で、頭の後ろにある紐を引くと、どんぐり目玉がひっくり返って「あかんべぇ」と舌を出すのが大きな特徴である。頭の中に竹ばねが入っていて、紐を引くと舌と目が一緒に動くようになっている。真っ赤な顔に黒い烏帽子をかぶった姿は強烈な印象があり、子どもには怖がられているが、大人には人気のある玩具で知られている。
 加藤清正が熊本城を築城したとき、顔だちが面白く、人を笑わせることが上手な「おどけの金太」と呼ばれていた足軽の金太という人気者がいた。嘉永年間(1848~1853)、金太の伝説をもとに人形師である西陣屋彦七(にしじんやひこしち)がからくり人形を作りだしたのがはじまりといわれ、その後「おばけの金太」を別名「目くり出し人形」と呼ぶようにもなった。
 このからくり人形は、仕掛けとなる竹ばね作りが出来上がりを左右するといわれている。
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2007/8/16


藤崎宮例大祭 Fujisaki-guu-reitaisai The Grand Festival of Fujisaki Hachimangu Shrine

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 承平五(935)年に勧請されたといわれる藤崎八幡宮。
 祀られているのが軍神であることから代々、武将の信仰が篤かったこの古社で、毎年の九月第三月曜日を最終日として五日間にわたって開催される例祭であり、熊本県内最大規模の祭りが藤崎宮例大祭(ふじさきぐうれいたいさい)である。
 仏教の戒律である殺生戒を元とする宗教儀式である放生会(ほうじょうえ)に由来するとされ、最終日に行われる随兵行列(ずいびょうぎょうれつ)でクライマックスを迎える、熊本の秋の風物詩だ。
 随兵行列は、加藤清正が神幸式を復活させた折、自ら頭となって兵を従えたのがその始まりと伝えられ、行列と共に神輿や飾り馬が練り歩く。
 神の乗った神輿と共に「ドーカイ、ドーカイ」という威勢のよい踊り子たちの掛け声と、六十以上もの団体が奉納するたくましい馬に囲まれた中、勇壮かつ荘厳に練り歩く行列には、神様もさぞやご満悦に違いない。
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2007/3/12


磐船神社 Iwafune-jinjya Iwafune Shrine

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 磐船神社は、大阪府交野市私市にある神社である。祭神は、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)。
 創始は、巨大な石船岩があるこの地を、物部氏始祖・ニギハヤヒノミコトの降臨の地であり、神降臨の山・哮峯(いかるがみね)だとして祀った事にはじまる。
 御神体は、「天の磐船」と呼ばれる船形巨石である。この石には、大坂城築城の時、加藤清正が運ぼうとして断念したという逸話が残っている。
 伝説ではニギハヤヒノミコトが、星田の舌を出したように低く伸びた山稜を、滑るように磐船にのって天降り、その磐船が磐船神社の御神体になったのだという。
 御神体岩は、横18、高さ12メートルもあり、その前に岩を背負うように社殿が建っている。
 磐船神社は、航海の神でもあり、不思議な伝説と巨岩郡を持つ、古の神社である。
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2007/2/14


名古屋城 Nagoya-jyou Nagoya Castle

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 愛知県名古屋市にある城。徳川家康が、慶長15年、前田、加藤、福島、細川、黒田等の豊臣系大名に助役を命じ、3年の歳月をかけ完成させた。
 江戸幕府の安泰のために、東海道の要所として、また大坂方への備えとして築城。その後、明治維新までの約250年間、徳川御三家の筆頭である尾張徳川家の居城として栄えた。
 屋根を飾る金のシャチホコのある、5層5階の大天守閣は、一度小天守閣をくぐってから入るようになっており、加藤清正の考案した連結の天守閣である。
 本丸御殿(昭和20年焼失)にあった狩野貞信たちの巨匠が描いた、襖絵や天井板絵など1049の面が現在も残っている。これらのほとんどが、国の重要文化財に指定されている。
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