NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/2/7


茶室 Chashitsu 

Jp

 茶室(ちゃしつ)の歴史は室町幕府の八代将軍・足利義政が、京都大徳寺の一休禅師の門下、村田珠光(むらたしゅこう)と能阿弥(のうあみ)とその子芸阿弥(げいあみ)孫の相阿弥(そうあみ)の四人とともにそれまでとは違う、茶会の作法を編み出した時にはじまる。四人は広い座敷の中に一丈(十尺四方)の屏風で囲み、茶の道具である台子を前に行う台子手前で茶礼を行った。これが茶室のはじまりである。
 村田珠光の時代は書院風茶室であったが、武野紹鴎(たけの じょうおう)の時代には四畳半の茶室がつくられた。その後、千利休の時代になると屋根の形は入母屋から切妻へと変わり、壁も土壁、格子も細竹の連子と草庵の茶室に変わっていき、さらに、三畳から一畳半の広さで行う侘茶の作法と変わっていった。
 その後江戸時代にかけて活躍した古田織部(ふるたおりべ)が床の間をもつ四畳半台目の席を考案し、徳川将軍家の茶道指南役であった小堀遠州が完成させた。
 茶室とは日本文化が作り出した美と意識の交差する空間である
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2006/12/20


銀閣寺 Ginkakuji Ginkakuji Temple

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 銀閣寺は、室町幕府8代将軍足利義政が、祖父義満の建てた金閣寺に倣って建てた別荘。義政の没後、臨済宗相国寺派の禅寺へと改められ、名称も義政の法号にちなんで「慈照寺」と名づけられた。
 文明14年(1482年)の造営時は、錦鏡池(きんちょうち)を中心に池泉回遊式庭園が広がり、その周囲には大小12棟の建造物が点在していたという。現在では、観音堂と東求堂(とうぐうどう)のみが現存。東求堂の同仁斎(どうじんさい)は、現存する最古の書院造だ。
 東山文化を代表する庭園も見事。門をくぐり美しく整えられた垣根の小道より白砂の庭へ足を運べば、独特の侘びと寂びの世界を目のあたりにすることができる。
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