NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/6/18


法金剛院 Houkongouin 

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 京都府右京区にある「法金剛院(ほうこんごういん)」は、通称「蓮の寺」と言われており、関西花の寺第一三番霊場として知られている。七月から八月に咲く蓮の花は、極楽に咲く花といわれ、世界から集められた約八〇品種の清楚で華麗な蓮が咲きそろう。
 平安時代初期、この地は右大臣・清原夏野(きよはらのなつの)の別荘だったが、没後、寺とした。その後平安時代後期の大治五(1130)年、鳥羽天皇の中宮である待賢門院の御願により復興し、法金剛院を建立した。
 丈六の本尊「阿弥陀如来坐像」は、像高が二メートル以上もある大作で、仏師・院覚(いんかく)の作と伝えられる。平安時代後期の代表的な仏像として、重要文化財に指定されている。その他、金属工芸を施した「十一面観世音菩薩像」、一木彫の「地蔵菩薩像」など、多数の重要文化財の仏像が保存され、それらは拝観することもできる。
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2008/4/22


地蔵菩薩 Jizou-bosatsu Jizou Bosatsu

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 地蔵菩薩(じぞうぼさつ)は、仏教における菩薩の一人である。
 サンスクリット語での仏の名を表す梵名(ぼんめい)、クシティガルバが大地の母胎という意味を持つことから、地蔵という名が付けられたという。
 その姿は、剃髪で袈裟を身につけており、右手に錫杖、左手には宝珠を持っている。
 釈迦の入滅後、五六億七千万年後に弥勒菩薩が出現するまでの仏が不在の間、六道を輪廻する衆生を救う菩薩として信仰されている。そのため、六道それぞれの地蔵菩薩を並べて祀った「六地蔵像」を日本各地で見ることが出来る。
 日本においては、浄土信仰が普及した平安時代以降、地蔵菩薩に対する信仰も広がっていき、その後、六地蔵信仰が全国的に広まり、古来より日本にあった道祖神とも習合し、今に至っている。
 菩薩は本来なら如来に次ぐ高い見地の仏だが、地蔵菩薩は「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」としてその地位を退き、六道を自らの足で行脚しながら、衆生の魂を救う旅を続けているという。
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2008/3/31


福林寺跡 磨崖仏 Fukurin-ji^ato Magai-gutsu Magaibutsu at Fukurinji Temple Ruins

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 福林寺跡の磨崖仏(ふくりんじあとのまがいぶつ)とは、滋賀県野洲市(やすし)小篠原の静かな林の中に点在する磨崖仏群の事である。
 福林寺跡は野洲中学校の裏道から林道を入った静寂な地にあり、周辺には小磨崖仏が無造作に点在している。
 大きな岩に高さ約45cmの地蔵菩薩立像13体が平肉彫りされている磨崖仏や、阿弥陀如来像2体と観音立像1体が彫り出されているものなどがあり、どちらも室町時代初期の作とされ、小さいながらまるで木に彫ったように細かく繊細な造りが特徴とされる。
 他に、石仏もそこかしこに転がっており、異世界のような不思議な雰囲気を醸し出している。
 その昔は、辺りにはもっと多くの磨崖仏があったというが、明治・大正のころ、大阪の富豪が自宅の庭に持ち去ったと伝わる。
 福林寺跡の磨崖仏は、何とも神秘的で奇妙な場所である。
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2007/12/3


高知 岩本寺 Kouchi Iwamoto-ji 

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 四国霊場第37番札所である岩本寺(いわもとじ)は奈良時代、行基が聖武天皇の勅願により高岡神社の別当寺として造立したものとされる。
 天正年間(1573~1592)の兵火によって焼失、その後釈長僧都により再興され、寺名を藤井山・岩本寺と改め現在に至る。
 本堂は昭和五三(1978)年の再建で、格天井には壇家を中心とした人々によって奉納された極彩色の板絵、575枚がはめ込まれており、阿弥陀如来、観世音菩薩、不動明王、薬師如来、地蔵菩薩の五体の本尊がある。
 寺には、一年に三回実るといわれる「三度栗」や、旅の女性を安産に導いた「子安桜」など、弘法大師ゆかりの七不思議が残されている。
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2007/11/1


智満寺 Chimanji Chimanji Temple

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 智満寺は、静岡県榛原郡川根本町にある曹洞宗の寺である。本尊は、八相釈迦牟尼如来、宝冠釈迦牟尼如来、千手観世音菩薩、厄除延命地蔵菩薩とされる。
 寺伝によると、創建は奈良時代で、鑑真の法孫にあたる広智という高僧が草庵を結んだのが始まりとされている。
 一説には、島田市の智満寺の末寺として奥大井に天台教学の拠点として開かれたとの口伝がある。
 延徳3(1491)年、駿河国・洞慶院より回夫慶文禅師を迎え、曹洞宗に改宗開山された。
 平安時代中期以降は、修験道の霊場である山岳寺院として栄え、戦国以後は今川・徳川氏に厚く信仰された。
 智満寺境内の十本杉は樹齢800〜1200年の古樹であり、国指定天然記念物となっている。
 智満寺は、澄んだ空気と絶景の地に建つ古刹である。
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2007/10/1


幸田町 本光寺 Kouta-cho Honkou-ji Honkoji Temple in Koda Town

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 本光寺(ほんこうじ)は愛知県額田郡幸田町、JR東海道線三ヶ根駅から東へ徒歩10分ぐらいの場所にあるお寺。正式名は曹洞宗瑞雲山本光寺である。
 開基は三河十四松平の一つ、深溝松平の初代である松平忠定公で松平家の菩提寺でもある。特にこの寺はアジサイでも有名で、別名「アジサイ寺」とも呼ばれている。
 その、アジサイの咲きほこる参道を進むと、右手に古めかしい小さな鎮守社があり、朱塗りの山門(薬井門)に出会う。山門をくぐると左手が西廟所、右手が東廟所で、どちらも松平家の霊廟である。
 山手の奥には方丈風で横に長い本堂の建物がある。軒下には松平忠利公が厄災消除のため作らせた、金銀銅をとりまぜ鋳造された梵鐘がつるされている。
 本尊は釈迦如来、脇侍である地蔵菩薩と千手観音菩薩は運慶の作と言われている。
 アジサイだけでなく、梅や椿も美しい寺である。
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天恩寺 Tenon-ji Tenonji Temple

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 愛知県額田郡額田町大字片寄字山下にある臨済宗妙心寺派の寺。
 戦勝祈願がかない、この地に寺を建立する願を生前になし得なかった足利尊氏の意をくんだ三代将軍足利義満が、貞治元(1362)年見性悟心禅師(けんしょうごしんぜんじ)に命じて天恩寺(てんおんじ)を建立した。
 城門のような豪壮さのある山門「薬医門」をくぐり境内に入ると、禅宗独特の放生池があり、橋を渡ると仏殿が見えてくる。仏殿は反りのはげしい唐模様の建築であり、国の重要文化財である。
 天恩寺には大杉があり、家康公見返りの大杉といわれている。そのいわれは、戦勝祈願に寺を訪れた家康が、このあたりで突然延命地蔵菩薩から「家康、家康」と呼び止められ、振り返ると大杉の後ろから刺客が矢を射る寸前であった、という伝説に基づくものである。幸いにも難を避けられた家康は、大杉を幾度も幾度も振り返り、戦場へ向かっていったと言われている。
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2007/6/13


宮崎 大光寺 Miyazaki Daikou-ji Daikoji Temple in Miyazaki

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 宮崎県宮崎市佐土原町にある臨済宗妙心寺派の寺。
 創建は1335年、岳翁長甫を開山和尚、第4代領主田島祐聡を開基として建立された。江戸時代には島津家の保護を受け、寺領75石を与えられ隆盛を極める。
 特にこの時代、高名な禅師として知られる、佐土原出身の古月禅師が42世としてこの寺に入り、大光寺を盛りたてた。古月は中興の人と言われている。
 文殊菩薩像(もんじゅぼさつ)は1348年に仏師康俊が彫ったといわれるもので、4人の侍者を従えた騎獅像である。国の重要文化財に指定されている。
 また木造地蔵菩薩半跏像は県の指定文化財になっている。
 大光寺には古月禅師の方針により、たくさんの歴史資料が残されており、重要な資料として、活用されている。
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