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2008/2/18


るり姫祭 Ruri-hime-matsuri Rurihime Festival

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 毎年一一月二三日、愛媛県大洲市の白滝では滝に身を投げたるり姫の霊を供養する、るり姫祭が開催される。
 るり姫は滝之城城主の藤原行春の奥方である。滝之城は戦国時代末期に長宗我部軍に再三攻められ、城は落城した。るり姫を含み女性たちは、吹き針、薙刀、手裏剣で応戦し最後に白滝に逃れたが、追っ手は容赦しなかった。
 るり姫は二人の娘に生き延びる様言い聞かせ、2歳の世継ぎの尊雄丸(たかおまる)を抱いて60メートル下の滝壷(今の雌滝)に身を投げて自殺する。
 供養と子供たちの健康を祈願して、赤・白・ピンク・青などの美しい衣装を身に付けた少女たちと、花神輿を担いだ少年達の行列が行われ、るり姫塚前での法要の後、花神輿を滝壷に投げ入れる。この後、舞踊や豊年踊りなど郷土芸能が行われる。
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2008/2/14


姫次 Himetsugi Mt. Himetsugi

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 姫次(ひめつぎ)は、神奈川県相模原市にそびえる標高1433mの山である。丹沢大山国定公園に属している。
 津久井町の青野原から焼山(やけやま)、黍殻山(きびがらやま)を経て犬越路(いぬこえじ)へ抜ける東海自然歩道のルート上にあり、姫次はその最高地点となっている。
 名前の由来は、天目山の戦いに敗れた武田勢の小山田八左衛門の娘である折花姫が、信長・家康連合軍に追われ、「もはやこれまで」と持っていた短刀で自分ののどを突いて自害した地がここで、以来「姫突き」と呼ばれたからと伝わる。
 山頂からは、晴れていれば富士山が見え、宮ヶ瀬湖が見渡せて爽快である。
 また、かながわの美林50選に選ばれているカラマツ林があり、新縁から紅葉まで訪れる者の目を楽しませてくれる。
 姫次は、明るく開けた素晴らしい展望を誇る山である。
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2007/10/1


矢作町 花の塔 Yahagi-cho Hana-no-tou Hana-no-tou (Flower Augury) Festival

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 矢作町花の塔(やはぎちょうはなのとう)は、愛知県岡崎市矢作町の誓願寺(せいがんじ)と矢作商店街振興組合が毎年五月の第二土・日に開催する春のイベントである。
 花の塔が行われる誓願寺は、その昔源義経を慕う浄瑠璃姫の悲恋の伝説が残されており、義経から浄瑠璃姫に形見に残した薄墨の銘の入った笛が保管されている。
 「花の塔」とは、全国的に行われているはなまつりと似た風習で、誓願寺境内に設置された様々な草花で飾った花御堂(はなみどう)のお釈迦様に、甘茶を注いで礼拝、五穀豊穣を願う。参拝者には甘茶が振舞われる。その他、東西二つのお堂では、農作物の吉凶を占う「おためし」が行われる。
 四百年続くこのお祭りを、矢作商店街振興組合や中・高校の生徒など、地域の人々が一体となって盛り上げる。
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2007/9/19


設楽節 Shidara-bushi 

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 設楽節(しだらぶし)は、鹿児島県指宿市(いぶすきし)開聞十町にある枚聞神社(ひらききじんじゃ)にて不定期に奉納されている神事である。
 枚聞神社は、神代に創祀されたといわれる伝説の古社で、新田神社と共に薩摩国の一宮を名乗っている。祭神は、大日孁貴命(おおひるめむちのみこと)。
 「シダラ」とは、手拍子や拍節などという意味の事であるとされている。
 枚聞神社に伝わる伝説によると、開聞から奉仕に出された姫が、時の天皇の寵愛を受ける事となった。しかし姫は後宮にいる女たちの嫉妬の的となってしまい、いたたまれず、遂に郷里へ帰って来てしまったという。
 この時、舟人たちが姫を慰めるためにこの踊りを作ったのが、設楽節のはじまりとされている。
 設楽節は、長い歴史を誇る郷土芸能である。
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2007/8/16


天麟院 Tenrin-in 

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 天麟院(てんりんいん)は、仙台藩祖・伊達政宗公の正室、愛姫(めごひめ)との間に生まれた一人娘である五郎八姫(いろはひめ)の菩提を弔った寺であり、日本三景の一つ、宮城県の松島にある。
 同じく松島にある陽徳院や円通院と並んで、松島の三霊廟に数えられている。
 五郎八姫は、徳川家康の六男であった松平忠輝のもとへ政略結婚という形で嫁いただものの、忠輝が家康に反発、大阪夏の陣への参戦を行わなかった事で高田七五万石を召し上げられ、離縁。仙台に戻った姫は仏門に入ることとなり、その落飾後の号が天麟院である。
 政宗公は姫を心配し、仏門に入った後も生活を支援し続け、二代藩主・忠宗にも「姫をくれぐれも頼む」といった遺言を残している。
 一説には姫はキリシタンだったといわれ、離婚を認めない教義のため、愛姫からの再婚の話にも一切耳を傾けなかったのだという。
 そんな五郎八姫の墓所は、忠輝の没した信州諏訪の方を向いているといわれる。二人の死後から三百有余年。誰にも邪魔されることなく、見つめ合っている。
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2007/8/15


七夕絵灯篭まつり Tanabata-edourou-matsuri Tanabata Edoro Matsuri

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 七夕絵灯篭まつりは毎年八月、秋田県湯沢市で行われる祭りである。
 太い青竹に短冊や紙細工などを下げ、夜には美人画などが描かれた大小の絵灯篭を掲げ、明かりを灯す。
 この祭りは、秋田藩佐竹南家五代目義安公に、京都の公卿、鷹司家から嫁いだ姫君が、京都への郷愁を短冊に記し青竹に飾ったことが始まりと言われ、それを知った町民が家々に短冊や吹流しを青竹に吊るし、悲しみが去ることを願ったのが今の祭事になったと言う。
 元々は短冊や工夫を凝らした紙細工などが主体だったが、明治時代以降に絵灯篭が作られ、現在の形になったと言われる。
 絵灯篭は市民プラザ内にも展示されており、祭りの期間外でも見学することが可能である。
 姫君の心を慰めるための秋田の幻想的な夏祭りは、多くの人々を魅了してやまない。
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2007/8/14


家康行列 Ieyasu-gyouretsu Ieyasu Gyoretsu (Procession)

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 家康行列(いえやすぎょうれつ)は、愛知県岡崎市にて毎年4月に行われる催事である。
 岡崎市主催の戦国祭り「家康行列」は、桜が満開な「桜まつり」のメインイベントして開催される。
 行列の起源は江戸時代にまでさかのぼり、明治初期には龍城神社の行事として行われていた。
 天下統一した徳川家康の遺影をしのび、三河武士をたたえる行事で、公募で選ばれた徳川家康を中心に武士団、姫列など1000余名の武者、騎馬十余頭が市内主要路を練り歩く。
 勇猛な三河武士団の出陣式や行進、地域の歴史紹介などによる、絢爛豪華な時代絵巻は、素晴らしい見せものなっている。
 桜が綺麗な河川敷は桜百景のひとつにも数えられている場所で、家康行列との融合は幻想的な印象を見る者に与える。
 行進中に、鉄砲隊と槍隊が演武を披露するほか、河川敷では「合戦祭り」が開催される。
 家康行列は、岡崎の春の風物詩となっているイベントである。
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2007/5/31


脇往還 Waki-oukan 

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 脇往還(わきおうかん)は、江戸時代の五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道)以外の主要な街道を言い、脇街道、脇道とも呼ばれた。
 脇往還は、五街道ほど関所の取締りが厳しくなく、女性たちに重宝された。
 脇往還の主な街道は、次の通りである。
水戸路(江戸~水戸)
伊勢路(四日市~山田)
佐屋路(岩塚~桑名)
美濃路(名古屋~垂井)
中国路(大阪~小倉)
下仁田路(上州~信州)
館林路(川俣~青柳)
 下仁田路は、険しい地形でもなく、また武士の往来も少なかったため、善光寺参りの女性によく利用され、別名「信州姫街道」とも呼ばれた。館林路は、「日光脇往還」と呼ばれ、日光東照宮への参詣客たちがよく利用したものである。各脇往還には、道標や宿屋町の名残を残す史跡などがあり、今では歴史の面影を残す格好の散歩道としてウォーキングを楽しむ人々に人気だ。
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