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2008/8/1


鎌田流棒の手 Kamata-ryuu-bou-no-te Kamata-ryu Bo-no-te

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 天正の時代、岩崎城主丹羽勘助氏次(にわかんすけうじつぐ)が領民達の武術の指南役として鎌田兵太寛信(かまたへいたひろのぶ)を家臣として迎えた。寛信は武術の達人で特に棒術を得意としていた浪人であった。
 後に「小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)」においては勇戦した寛信であったが、戦後は戦没者の供養のため仏門に入り諸国を行脚した。
 郷里尾張を訪れた際、村民の懇願で、当地に鎌田流の道場を開設。やがて「鎌田流棒の手(かまたりゅうぼうのて)」は三河地方にも広まっていった。
 その後、農民の戦力であった棒の手は長い歴史を経て、農村の若者が演ずる農民芸能として神社の祭礼に奉納される行事となっていった。
 独特の掛け声で一・一メートルの棒を操る勇壮な姿は見物である。県の無形文化財に指定され、次の代に伝えるべく熱意を持つ人々によって今もなお技が磨かれ受け継がれている。
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2008/6/30


小牧山城 Komakiyama-jou 

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 小牧山城(こまきやまじょう)は、愛知県小牧市の市街地西に位置する、標高約八六メートルの小牧山にある。
 桶狭間の合戦ののち、尾張平野の中に孤立した丘陵と、その麓を利用し、永禄六(1563)年に織田信長が築いた平山城である。
 信長の死後、天正一二(1584)年「小牧・長久手の戦い」において、豊臣秀吉と戦った織田信雄(のぶかつ)・徳川家康連合軍が大規模な改修を施し陣城とした。
 その後、小牧山は尾張藩によって入山が禁じられた。明治以後もこの規則は守られ、明治二二(1889)年に尾張徳川家に払い下げられた。
 昭和五(1930)年に尾張徳川家の徳川義親(とくがわよしちか)から小牧市に寄贈されて以後、自然公園として整備された。
 現在は城址公園となり、削平地や復元された空堀、土塁、旧虎口跡などがある。また山頂に展望台がわりの模擬天守が建っており、内部は歴史館となっている。
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2008/6/26


岩崎城 Iwasaki-jou 

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 岩崎城(いわさきじょう)は、小高い丘の上に築かれた城である。
 この城は室町時代末期、尾張国の東端、国境付近を守る織田信長の父である織田信秀の支城であった。岩崎は、尾張と三河を結ぶ街道の要衝地として知られ、以前から交易の場として栄えたところである。城下は「市場」の地名が今でも残っている。
 築城年代ははっきりしないが、織田信秀により築城、属将であった荒川頼宗が守備していたとされる。享禄二(1529)年尾張国に進出するため、三河国岡崎城主で徳川家康の祖父であった松平清康が岩崎城を攻め落とした。その後、天文六(1537)年、当地方の土豪であった丹羽氏四代の居城となった。
 昭和五九(1984)年から約三年かけて発掘調査が行われ、隅櫓や井戸跡などが発見された。各郭の間を堀や土塁が取り囲み、城の遺構はよく残されている。
 現在、城跡は公園として整備されており、三層の模擬天守や歴史記念館が建てられている。
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2008/6/25


小倉山城 Ogurayama-jou 

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 小倉山城(おぐらやまじょう)は、岐阜県美濃市泉町にあった城である。
 慶長一〇(1605)年、飛騨国高山藩主であった金森長近(かなもりながちか)は、養子の可重に高山城を譲り隠居し、隠居城として小倉山城を築城した。
 二年後、長近が没すると、可重は長近の実子長光に2万石を分地したが、慶長一六(1611)年、金森氏は跡継ぎが無く没したため取りつぶしとなり、小倉山城は廃城となった。
 元和元(1615)年、尾張徳川家の所領となり、廃城となっていた小倉山城に代官所が置かれ、以後明治維新まで続いた。
 現在、小倉山は小倉公園として整備されている。遺構としては石垣と土塁が現存しており、本丸に模擬櫓、山頂に三階建ての展望台と忠魂碑が建造されている。
 小倉山城は、城として使用されたのは短期間であったが、その後代官所として利用され、人々に親しまれた城である。
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2008/3/7


知多 平泉寺 Chita Heisen-ji 

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 知多半島の阿久比町にあるのが、知多四国霊場一六番である平泉寺(へいせんじ)である。天長七(830)年、淳和天皇の勅願により慈覚大師円仁が創建したと伝えられる。
 本尊は不動明王で、尾張不動尊として信仰を集めている。不動明王立像と毘沙門天立像は中心一木造り彫眼の像で、県指定文化財に指定されている。また、阿弥陀如来像は仁平三(1153)年の在銘仏で県下最古のものとなり、同じく県指定の文化財になっている。
 文治元(1190)年旧暦八月一五日に、源頼朝が野間の里(美浜町)にある父・義朝の墓参りのあと、尾張不動尊に国家安泰などを祈願したといわれる。
 そして墓参りの帰り道、中秋の名月が美しかったので、坊内を大乗坊から円月坊と呼ぶよう命じたと伝えられている。
 

 
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2008/1/8


興正寺 五重塔 Koushou-ji Gojuu-no-tou 

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 興正寺(こうしょうじ)は天瑞円照(てんずいえんしょう)が高野山より訪れ草庵を結び、貞享五(1688)年、尾張二代目藩主・徳川光友より建立が許されたことに始まる。
 総門・中門・五重塔・本堂が南北に一直線に並ぶ、古きを大切にした伽藍(がらん)配置となっている。
 中でも五重塔は、この寺の象徴として広く親しまれている。浄財を資として文化五(1808)年に建立された。
 総高30メートルの高さにして流線美と平均率の妙に勝れており、本瓦葺の軒が精悍な印象である。
 東海地区雄一の木造塔であり、昭和五七年に重要文化財に指定されている。
 毎年一一月中旬~一二月上旬頃になると辺りは紅葉に染まり、沢山の観光客が訪れる。
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2007/12/21


尾張 大野城跡 Owari Oono-jou-ato Ono Castle Ruins in Owari

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 大野城は別名・宮山城ともいい、伊勢湾が一望できる青海山(せいかいざん)の山頂に築かれている。城主は尾張源氏の大野氏・一色氏・佐治氏四代と続いた。
 大野城主・佐治氏は、知多水軍を率いて海運による交易などを進め、伊勢湾の海上交通を支配する上で重要な役割を果たしてきた。織田信長の妹と後の徳川秀忠の妻となる姪が佐治氏に嫁いだことも、信長が知多水軍の輸送力を重要視していたためと伝えられる。
 織田信長の妹お市の末娘・小督の方(おごうのかた)は、城主・佐治与九郎のもとへ嫁いだ後、徳川三代将軍家光の母となる。
 現在は城山公園として整備され、二層の天守閣に見立てた展望台と城門が建てられている。伊勢湾をのぞむ天主閣からの景色は素晴らしい。また、物見櫓跡には大野城主であった佐治氏を祀る佐治神社がある。
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2007/11/9


七宝焼き Shippou-yaki 

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 七宝焼き(しっぽうやき)とは、日本伝統の工芸技法である。
 陶磁器のように土を焼くのではなく、土台に金、銀、銅などの金属を用いてその表面にガラス質の釉薬(ゆうやく)を施し、短時間で焼成する。
 七宝焼きは中近東で生まれ、シルクロードを通って中国から日本に伝わったとされている。
 かつては刀装具や釘隠し、襖の引き手などの装飾に使われていた。しかしその技術は各家の秘伝であり、万人に広まることはなかった。
 京都の平田道仁(ひらたどうじん)が、江戸時代初期に朝鮮半島の工人に七宝焼きの技術を学んだと言われている。また、江戸時代後期には尾張の地で梶常吉が独力で七宝焼きの技法を解明し、「近代七宝」が始まったとされる。
 七宝焼きは、金・銀・瑠璃・しゃこ・めのう・赤珠の七種の宝石の美しさを表現したと言われる伝統的な工芸品である。
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