NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/2/7


江戸筆 Edo-fude 

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 江戸筆は、東京にて造られる伝統工芸品である。
 610年頃、高句麗の僧・曇徴(どんちょう)が紙、墨の製法を招来し、これが筆墨硯渡来の始まりとされる。
 以後、筆は京都を中心に広まったが、江戸時代(1600年代)に入って商人と寺子屋が急増し、江戸の筆需要は急増した。
 江戸筆職人は、供給元としてその技術を磨き、その後の大火や幾たびもの戦災で規模を縮小しつつも、伝統の技を守り続けてきた。
 江戸流の製造法「練りまぜ法」は、元禄期に細井広沢により確立された手法で、明治5年の学制発布と共に急速に広まった。
 関東大震災、第二次世界大戦の惨禍により、筆職人の多くは東京を離れたが、東京に残った筆職人は高級筆の製造に活路を見出し、技術技法の継承を図っている。
 江戸筆は、日本の書物や浮世絵を影で支えてきた、欠く事の出来ない実用工芸品である。
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2007/1/26


福沢旧居 Fukuzawa-kyuukyo The Fukuzawa Residence

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 福沢旧居は、大分県中津市留守町にある、福沢諭吉が幼年・少年・青年時代を過ごした、国指定の史跡となっている家である。
 諭吉は天保五(1835)年に大阪堂島の中津藩蔵屋敷で生まれた。父が死亡したので諭吉が1歳6ヶ月の時に帰藩し、この家で19歳まで暮らした。
 庭に建つ土蔵は諭吉が改造し、勉学に励んだという。母屋は、起居した場所である。また隣接する記念館には、諭吉に関する様々な資料が展示されている。
 その後19歳で長崎に蘭学の勉強に行った諭吉は、やがて英語の必要性を痛感し、ほぼ独学で英語の勉強を始め、最終的に咸臨丸でアメリカまで行っている。
 後に、340万部売れたという「学問のすゝめ」を出版、慶応義塾の創始者となる。
 福沢旧居は、民主主義の先覚者・諭吉の若年期を偲ばせる歴史的家屋である。
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2007/1/25


閑谷学校 Shizutani-gakkou Shizutani Gakko

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 閑谷学校(しずたにがっこう)は、備前藩主池田光政の命により、約330年前に作られた日本最古の庶民の学校。岡山県備前市閑谷に所在する。創立以来、儒教精神に基く教育がなされ、他藩からの入学者、学者、文人の来遊も相次いだとか。明治以降は旧制中学、新制高校へと変遷、現在は県青少年教育センターとなっており、三百余年の間、優秀な人材を送り出している。
この建造物の最大の特色は、屋根瓦に備前焼を用いていること。そのためにわざわざ近くに窯を築き、伊部から陶工を呼んで焼いたという。その結果、いかにも儒学の殿堂にふさわしい雰囲気を醸し出している。学校の周囲をぐるりとめぐるかまぼこ型の石塀も美しい。中国の唐様を真似たもので、石積みが精密を極め全体によく調和している。
閑谷学校は、講堂をはじめ石塀や敷地内のほとんどの建物が国宝・重要文化財に指定されているという。
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