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2008/11/14


南下古墳群 nanka-kohun-gun 

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 南下(みなみしも)古墳群は、群馬県の赤城山と榛名山の南の麓、利根川の西に位置する古墳群である。
 かつては四〇基を超える大規模な古墳群であったが、現在は九基が現存するのみとなっており、そのうちの五基の古墳に「A号」から「E号」まで名付けられている。
 五基の古墳のいずれも築造時期は古墳時代後期と考えられ、それぞれ石室の形状や使用している石に違いがある。
 その中で「A号」と「E号」の造りには共通点も多く、ともに榛名山の噴火時に噴き出した軽石を用いており、玄室壁面に石材加工の際の作業線とみられる赤い線を残している。これは古墳時代の設計技術をあらわした全国的にもほとんど例のない希少なものである。
 また古墳群のすぐ東には上野国三宮(こうずけのくにさんのみや)神社という古くから続く神社があり、近くには古墳時代から古代にかけての集落遺跡も多いことから、それぞれが密接な関係にあったのではと推測されている。
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2008/9/12


小幡焼 Obata-yaki 

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 小幡焼(おばたやき)は、上州の小京都、群馬県甘楽郡小幡で作られている焼物である。
 いつごろから始まったのかは定かではないが、江戸時代には粉引きを中心に作陶されていたと見られている。織田信長の次男である織田信雄が築庭し、国の名勝にも指定されている楽山園の近くに登り窯が築かれたことから楽山園焼とも称されている。
 粉引きはもとより、単純な文様のみの壺や茶碗、鉢、湯のみなど素朴な中にも味わいのあるものを作陶している。
 また、桃花紅と呼ばれる、清朝時代に作られたといわれる陶器の再現にも成功したことでも知られている。焼成が難しく、再現は至難とされていたが、その淡い桃色や緑がかった桃色の透き通るような美しい表面は、小幡焼の元で今日に復活を遂げたのである。
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2008/9/5


卯三郎こけし Usaburou-kokeshi 

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 卯三郎(うさぶろう)こけしは、群馬県北群馬郡榛東村にて製作されている民芸品である。昭和二五(1950)年、岡本卯三郎(おかもとうさぶろう)によって考案・創設された。
 それまでの技法や概念に捕らわれず、こけし製造に特殊機械を取り入れ、筆のみだった絵付けに彫刻やニクロム線で焼く技法を使用した。
 更に、材料として一般的に使用されているミズキの他に、美しい木目をもつケヤキや栗材を何とかこけしに生かせないかと考え、苦心の末独自の技術で新しい感覚のこけしを生み出した。
 木のぬくもりを生かした、優しくて暖かい表情が魅力で、常に新しいものを造り続ける所が特徴の近代こけしとされる。
 
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2008/9/4


高崎だるま Takasaki-daruma 

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 高崎だるまは、群馬県高崎市で作られている、伝統的な工芸品である。同市にある小林山達磨(だるま)寺の第九代住職であった東獄和尚の伝授により作り始められたといわれている。以降はこの地の特産品として広く知られるようになり、現在では全国で作られるだるまのうちのおよそ80%、年間百五十万個のだるまが生産されているという。
 その昔、大洪水で流されてきた大木を使って、一了(いちりう)という行者が達磨大師の像を彫ってお堂に安置したのが小林山達磨寺の起こりといわれている。そうした経緯もあって、元々だるまとは昔から親しんでいた土地柄でもあった。
 高崎だるまの特徴は、その眉と、鼻から口にかけてのひげである。眉は鶴、口ひげは亀を表しており、縁起を担いだいわゆる福入りだるまとなっている。
 毎年の一月六日と七日の二日間、境内では「少林山七草大祭だるま市」が開かれている。お気に入りのだるまを求めて、賑やかな境内を歩いてみるのも良いかもしれない。
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2008/8/29


はりみ(紙製ちりとり) Harimi(Kamisei-Chiritori) Harimi (Paper Dustpans)

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 まだ日本の家屋に和室が多かったころ、日々の簡単な掃除は箒とちりとりだった。
 さっと掃いて、さっと取る。その簡素な動作が、日々の暮らしを清潔なものにしていた。
 最近はそのような光景も余り見かけなくなってきたが、今の多種多様化するライフスタイルに、本当にそれらは合っているのだろうか。
 ちょっとした掃き掃除にもわざわざ掃除機を引っ張り出し、ちょっと使ってまたしまう。
 なら、いっそのこと昔のようにこのはりみ(紙製ちりとり)と箒を傍らに用意しておいてはいかがだろう。和紙に柿渋を塗ったもので、大きさも二〇cmほど。
 色合いも程好く、部屋の中にあっても自然と溶け込むし、大きさも小ぶりで、どこにあっても落ち着きがある。
 こういう日常の道具は無造作に部屋にあってこそ、映えるものであるべきだ。
 小さい箒とセットで、机や棚の上などの狭い場所で活躍してくれるだろう
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2008/8/21


高崎まつり Takasaki-matsuri 

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 群馬県最大の祭りといわれる高崎まつりは、高崎藩主大河内家の先祖である源頼政を祀った頼政神社の祭りを起源としている。
 大河内家が明治初期に東京へ移ったこともあり一時衰退したが、道祖神祭り、高崎奉納祭、高崎ふるさとまつり、高崎まつりと、名を変えながら伝承されてきた。
 祭りでは各地で様々なイベントが開催されるが、初日には北関東最大級規模の花火大会が烏川和田橋上流河川敷にて行われ、七〇万人以上の人出で賑わう。
 高崎まつりと同時に高崎山車まつりが開催される。頼政神社の祭礼で使われた山車が今も伝承され、高崎市内の各地区には四〇台近く残っている。
 藤原定家、恵比寿、牛若丸など様々な人形が乗った山車が繰り出し、祭りを盛り上げる。それらが広場に集まる集結式はまさに圧巻である。
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2008/6/4


至仏山 Shibutsu-yama 

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 至仏山(しぶつやま)は、群馬県北東部、尾瀬ヶ原の西に位置する標高2228メートルの山で、尾瀬ヶ原をはさんで北東の燧ヶ岳(ひうちがたけ)と向きあい、尾瀬の景勝をつかさどる背景の山として知られる。
 尾瀬国立公園に属し、深田久弥の著書『日本百名山』のひとつに選ばれている。
 高山植物が多種生育しており、ジョウシュウアズマギクやオゼソウといったここでしか見られない固有種もある。さらに紅葉の季節には、優美な色調と点在する岩石とのコントラストがみごとな眺めをつくりだす山である。
 明治の中頃、地形図を作成するために訪れていた陸軍測量部の役人が、至仏山を指して「あれは何と言うのだ?」と聞いたところ、土地の人は「あれは渋沢(しぶっつあ)です」と答えた。渋沢とは、現在の登山道のことで、渋柿のような茶褐色をしているので、そのように呼んでいたが、これを測量部の役人は山の名前と思い、「至仏山」と記したのがその名前の由来とされている。
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2008/2/27


後閑城 Gokan-jou 

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 後閑城(ごかんじょう)は、群馬県安中市にあった城である。
 文安四(1447)年、依田内匠頭忠政が築城したとされ、依田氏の後、新田氏が後閑一帯を領し、永禄二(1559)年、新田信純は武田氏の下へ去った。
 信玄は、真純と改めた新田信純に上条家を継がせ、永禄一〇(1569)年、後閑城へ入れた。
 天正一〇(1582)年、武田氏が滅亡すると、信純の長男・新田信重は厩橋城の北条(きたじょう)高広に従い、後閑姓となっていた次男と三男は後北条氏に属し、両後閑と呼ばれた。
 天正一八(1590)年、豊臣秀吉の小田原征伐において、後閑城も大道寺政繁の指揮に入ったが、北条氏の滅亡と共に廃城となった。
 現在、城跡は後閑城址公園として整備されており、四季折々の草花が楽しめる。
 後閑城は、関東の要衝にあった新田氏ゆかりの城である。
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