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2008/3/7


旧中沢家住宅 Kyuu-nakazawa-ke-juutaku The Old House of the Nakazawa Family

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 旧中川家住宅(きゅうなかがわけじゅうたく)は宮城県名取市の十三塚公園内に保存されている江戸時代中期頃の名取市の標準的農家である。
 建物の構造は屋根が四方向に傾斜する茅葺の寄棟造(よせむねつくり)で、内部は田の字のように四間取りとなっている。この間の取り方は、この地方独特のもので「名取型」と呼ばれている。土間と座敷は仕切りが無く「うしもち柱」「ほいと柱」「嫁かくし柱」と呼ばれる三本の荒削の独立した柱で支えられている。そのため東北地方独特のそぼく且つ重厚間のあるどっしりとした雰囲気がただよう。
 旧中川家住宅は昭和四八年までは実際に人が居住していたが、昭和四九年に国指定の重要文化財となり、昭和五〇から昭和五一年にかけて改築、この地に移転された。
 江戸時代の庶民の生活を今に伝える大変貴重な国の財産である。
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2007/10/18


旧本田家住宅 Kyuu-honda-ke-jyutaku 

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 「旧本田家住宅」は、長崎県下でも最古の農家住宅のひとつで、旧大村藩領古河村(現長崎市古河町)に遺存。建築年代は定かではないが、本田家は明和年間(1764〜1771年)にこの地に定住しているので、この住宅もその頃に建てられたと推定されている。
 本屋根は茅葺き。下屋は瓦葺きが普通だが、これは下屋も茅葺きである。4室あるうち、土間寄りの2室の間に仕切りを除いて1室とした、いわゆる三間取りの平面を持つ。土間の流しは「はしり」と呼ばれる、しゃがんだ姿勢で炊事を行う独特の形式である。
 旧本田家住宅は、昭和四六(1971)年に国の重要文化財に指定された。
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2007/9/13


旧岩田家住宅 Kyuu-iwata-ke-juutaku 

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 旧岩田家住宅(きゅういわたけじゅうたく)は、仲町伝統的建造物群保存地区にある建物の1つで、寛政時代から文化年間に建てられたものと予測されている。
 建てられて間もなく、家を移動した後、増改築等が行われていると推測されているが、これらはあまり大掛かりでなく、柱や小屋組などの主な構造や、藁葺屋根等は当時のまま残っている。
 当時の武士の生活を知る上で重要な建築のひとつとされており、広間、座敷、奥座敷、居間などで現在も当時の雰囲気を見ることができる。
 旧武家屋敷街の保存に積極的であった故・岩田夏城氏の遺志として昭和五六年八月に弘前市に寄付されたものである。
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2007/7/10


岩手 旧後藤家住宅 Iwate Kyuu-gotouk-e-jyuutaku 

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 江戸時代の豪農の住宅をそのままとどめる貴重な遺構、「旧後藤家住宅」。岩手県奥州市前沢区七日町に所在する。
 建立年代は定かではないが、解体工事中に地下掘立柱の穴底から発見された笠塔婆の残骸に、元禄八(1695)年の記録があることから、江戸時代の建造と推測されている。
 旧後藤家住宅は、南部の曲り家式家屋(平面がL字形をし、突出部が広い厩となっている構造)、東北地方における民家の形式を代表する家屋。間取りは、全体の半分を占める土間と、床上に二列の部屋を配した平面からなり、上・下屋から構成されている。土間には、断面多角形の太い上屋柱が林立している。直家、寄棟茅葺の原形をとどめ、盛土や無双窓など、日本の民家の建築史上大変貴重なものである。
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2007/7/4


養蚕民家 Yousan-minka 

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 あまり知られていない事だが、北海道の東旭川町は、明治末期から大正初期にかけて全道屈指の養蚕地区として知られていた。この頃の養蚕民家(ようさんみんか)を復元したのが、東旭川町瑞穂にある「旧松浦家住宅」である。
 開墾前から野生の桑が多く生息し、養蚕に適していた東旭川町。明治三十四(1901)年頃から、養蚕が盛んであった福島県大田村周辺から団体入植が行われ、副業として大きく発展した。最盛期の大正八(1919)年には310戸にも及んだという。
 旧松浦家住宅は現存する唯一の養蚕民家であり、郷里福島の養蚕民家を模して復元されたものである。
 茅葺の屋根は「片あずま」と呼ばれる大胆なデザインで、寄棟屋根の一部を切り落とし、そこに開口部を設けた造りとなっている。
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2007/6/18


宮宿 Miya-juku Miya-juku

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 宮宿(みやじゅく)は、東海道五十三次の四一番目の宿場町。現在の愛知県名古屋市熱田区にあたる。
 東海道の中で唯一、この宮宿と桑名宿の間は船でも通行が可能となっていた。この海上の距離が七里(約27キロメートル)あったことから、七里の渡しと呼ばれていた。
 江戸時代に街道が整備されると、中山道の脇街道「美濃路」や東海道の「佐屋街道」は分岐点であることからも大変な人が集まったが、更に熱田神宮の門前町であったことから、往来する旅人のほか参拝客でも大いに賑わった宿場であった。そのことから、旅籠の数は東海道最大数の二四八軒、本陣も二軒設置されていた。
 当時、脇本陣格の旅籠であった丹羽家住宅が市の有形文化財として現在も残されている。
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2007/6/15


旧笠石家住宅 Kyuu-kasaishi-ke-juutaku 

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 旧笠石家住宅(きゅうかさいしけじゅうたく)は、青森県十和田市奥瀬にある古民家である。国指定の重要文化財となっている。
 この土地で古くから農業を営んできた笠石家の住宅で、十和田湖から流れ出る奥入瀬川の右岸にある、狭い台地上になっている場所に保存されている。
 江戸時代後期の18世紀半ば頃に建築された、と推定されている。
 建物は寄棟造り茅葺の直屋で平面はひろま型に取られ、下手に馬屋があり、馬をつなぐため掘立柱が1間ごとに立っている。
 梁などの主要構造部はチョウナ仕上げで、また土台を用いず礎石に直接柱を立てるなど、古い要素を各所にとどめた独特の建築様式となっている。
 旧笠石家住宅は、南部曲屋成立の一端を覗ける古民家である。
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2007/6/12


江渡家住宅 Eto-ke-juutaku 

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 江渡家住宅(えとけじゅうたく)は、青森県三戸郡五戸町にある旧家である。国の重要文化財に指定されている。
 天明年間(1781~88)の建築といわれる大邸宅で、保存状態も良く、当時の原形をそのままとどめているのは貴重といわれている。
 桁行十二聞半、梁間六聞、八十五坪、寄せ棟造りの茅葺屋根で、四方せがい造りとして、北正面に玄関を付属させている。
 江渡家は、江戸時代に南部藩の代官所に仕えていた御給人と呼ばれる在郷士族で、農業を営みながら五戸代官所の下役を勤めた家柄である。
 住宅は江戸時代後期に飢餓救済事業として建策され建てられた家で、格式の高い武家屋敷の様式を備えている。
 江渡家住宅は、江戸の昔を偲ばせる、暖かみのある旧家である。
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