NIPPON Kichi - 日本吉

記事数38件: 1~8 件表示     >>     >|  

2008/8/1


鎌田流棒の手 Kamata-ryuu-bou-no-te Kamata-ryu Bo-no-te

Jp En

 天正の時代、岩崎城主丹羽勘助氏次(にわかんすけうじつぐ)が領民達の武術の指南役として鎌田兵太寛信(かまたへいたひろのぶ)を家臣として迎えた。寛信は武術の達人で特に棒術を得意としていた浪人であった。
 後に「小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)」においては勇戦した寛信であったが、戦後は戦没者の供養のため仏門に入り諸国を行脚した。
 郷里尾張を訪れた際、村民の懇願で、当地に鎌田流の道場を開設。やがて「鎌田流棒の手(かまたりゅうぼうのて)」は三河地方にも広まっていった。
 その後、農民の戦力であった棒の手は長い歴史を経て、農村の若者が演ずる農民芸能として神社の祭礼に奉納される行事となっていった。
 独特の掛け声で一・一メートルの棒を操る勇壮な姿は見物である。県の無形文化財に指定され、次の代に伝えるべく熱意を持つ人々によって今もなお技が磨かれ受け継がれている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/11/12


伊崎の竿飛び Isaki-no-saotobi Izaki Pole Diving

Jp En

 伊崎の竿飛び(いさきのさおとび)は、滋賀県近江八幡市白王町の伊崎寺にて毎年8月の第1日曜に行われる行事である。
 伊崎寺は、貞観年間(859~877)に開基されたと伝わる天台宗の寺院で、琵琶湖に突き出た小さな半島の先端に建っており、修行道場でもある。
 竿飛びは、今から約1100年前にこの寺で修行中の建立大師が、寺の眼下に広がる琵琶湖に空鉢を投げて、湖上を行きかう漁民たちに喜捨を乞い、その後自ら湖中に飛びこんで空鉢を拾いあげた、という故事に基づくと言われている。
 行事では、琵琶湖上に突き出た長さ13mの角材から、若者らが約7m下の湖面に飛び込む。強い日差しのもと、水しぶきをあげ豪快にダイビングする姿に、見物客からは盛んな拍手が送られる。
 伊崎の竿飛びは、荒行から生まれた厄除祈願・度胸試しの歴史ある伝統的行事である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/11/9


長福寿寺 Chouhukujyu-ji 

Jp

 長福寿寺(ちょうふくじゅじ)は、千葉県長生郡長南町長南にある天台宗の寺である。本尊は阿弥陀如来。
 延暦一七(798)年、桓武天皇の勅願により、伝教大師・最澄によって創建された。
 正式名を、三途河頭極楽東門蓮華台上阿弥陀坊太平埜山本実成院長福寿寺と言い、日本一長い勅号とされている。
 関東における学問所として、房総内外の寺院子弟の教育にあたり、中世においては西の比叡山、東の三途台と称せられ、房総三国における大本山として末寺308ヶ寺を有した大寺である。
 現在は研修道場としても開放され、各種講演会が開催されている。境内には紅花が咲いており、所蔵の木造慈恵大師坐像は、県指定の有形文化財になっている。
 長福寿寺は、長い歴史を誇る関東随一の大古刹である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/9/28


植芝盛平 Ueshiba Morihei Morihei Ueshiba

Jp En

 植芝盛平(うえしばもりへい)は「合気道」の創始者。明治一六(1883)年、和歌山県生まれ。数学・物理に強く、英雄伝説や奇跡説話に関心を抱く少年だった。
 税務署勤務を経て、文房具店を開業後、古流武術や剣術を習得した。日露戦争に従軍した盛平の銃剣術は、連隊一だった。
 故郷に戻って農業に携わり、開拓移民として北海道へ。農業指導の傍らで、合気柔術を習った。
 父の病気平癒祈願の為に、京都の出口王仁三郎を訪ね、「鎮魂帰神法」の教えを受ける。触発され、京都に移住し、「植芝塾」を開設した。気・心・体がひとつになった「合気武術」を誕生させた。
 盛平の噂は、全国に広まり、多くの軍人や武道家を集めた。その後、東京に道場、茨城県に修練場と合気神社を併せもつ合気苑を建てた。
 海外に自ら出向くなど、晩年まで合気道の指導・普及に身を捧げた。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/9/11


本吉法印神楽 Motoyoshi-houin-kagura 

Jp

 岩手県南部から宮城県北部に伝承される法印神楽の発生については諸説あり、定かではないが、俗に気仙神楽とか浜神楽と呼ばれ、海岸部の気仙や本吉、牡鹿郡に多く流布された。
 本吉法印神楽(もとよしほういんかぐら)もそうした中の一つであり、同地方に伝わるいくつかの神楽の祖流の一つであると目されている。
 同神楽が伝承されている南三陸の戸倉新町は、かつて折立村の中心で、四八坊の修験道場があったと伝えられており、同神楽はその修験者達によって神前に奉納するために伝承されたといわれる。
 元々は三三番の演目があったとされるが、現在ではその中でも一二番が伝承されており、特にかんなぎ二四番が有名である。
 今は南三陸町と北上町の羽黒派の法印九名によって伝承されており、それぞれで組を作って、各地の神社の祭礼などに招かれて奉納されている。
 幽玄で幻想的なその舞は、九名の手によって、今も守り継がれている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/8/30


日輪寺 Nichirinji Nichirinji Temple

Jp En

 茨城県久慈郡大子町にある日輪寺は、今から1200年前、大同三(808)年に弘法大師が現世浄土を願って開山した。
 弘法大師は、みづから十一面観世音の霊像を刻んで本尊とし、朝に祖国の隆昌と安民豊楽の護摩修行を行い、 夕べに有無両縁の冥福を祈願した。
 ここは、北関東と南奥州の大道場として信者を広め、永延三(987)年に板東二一番の霊場となった。
 明治一三(1880)年、山火事のため堂塔を焼失したが、霊場の加護により尊仏は難を免れ、大正四(1915)年四月には旧観音堂跡現日輪寺が再建されて現在に至る。 
 本堂左手には、展望台付き休憩所があり、好天のときは富士山も望めるという。
 日輪寺から更に車で5分ほど登ると日本武尊が創建したとされる八溝嶺神社がある。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/8/16


群馬 不動大滝 Gunma Fudou-ootaki The Fudo-Otaki Waterfall in Gunma

Jp En

 群馬の不動大滝は、群馬県前橋市粕川町にある、上毛一の大瀑布。日本の滝百選にも選ばれている。
 赤城山にある小沼から流れ出す粕川上流に位置する滝で、落差50mのその轟然たる様子は、赤城山随一といわれる。
 轟音を響かせて落ちるさまは迫力満点であり、木々の濃い緑やアカシヤの花に彩られる初夏、霧と虹が織りなす幻想的な夏、錦織なす秋、冬は凍結した氷柱など、四季折々に表情を変えて、訪れる人を迎えてくれる。
 浸食で形作られた大絶景に囲まれた雄大な景観は、まさに自然のアートといえる。
 周囲には、国定忠治が隠れ住んだといわれる岩屋や、江戸時代まで赤城山の修験者たちの修業道場だった滝沢不動尊など見どころたっぷりである。
 群馬の不動大滝は、豪快な絶景を誇る名滝である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/8/2


氷室薬師堂 Himuro-yakushi-dou Himuro Yakushido

Jp En

 宮城県大崎市にある氷室薬師堂(ひむろやくしどう)は、正式名称を村上寺と称し、大同二(807)年に坂上田村麻呂が将兵の安全を祈り、建立したものと伝えられる非常に歴史のある寺だ。
 以来、鎮護国家衆生利益の道場として栄え、今に至ることとなる。
 鎮護ももちろんだが、特に眼病の霊験あらたかであるといわれ、今も遠近から篤い崇敬を受ける名刹としても知られている。
 拝殿脇には、神社で言うところの絵馬に相当する、目の部分が穿たれた、顔を模写した石がうずたかく詰まれており、訪れる人々の氷室薬師への篤い信仰が伺われる。
 またこの寺は宮城に昔から伝わる逸話の舞台でもある。
 根っからの臆病者の武士が、それを払拭すべく薬師堂に百日詣でをするも、満願の夜に現れた妖怪に勇気を出して切りつけてみたら、御堂の柱だったという話で、今もその刀傷を見ることが出来る。
 荘厳かつ霊験あふれる場ではあるが、なんともほっとする逸話も残す、不思議な空気を纏った寺である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



記事数38件: 1~8 件表示     >>     >|  
NIPPON Kichi - 日本吉 - 日本語に切り替える NIPPON Kichi - 日本吉 - to english

モノ・コト・ミル・ヒトで綴る
日本の美意識。

現在の記事 5444
カテゴリーズ
都道府県
キーワードシャッフル
お気に入り
キーワード検索
閲覧履歴



Linkclub NewsLetter