NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/11/7


とんぼ玉 Tonbo-dama Dragonfly Ball

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 「とんぼ玉」-この風変わりな名前を持つ小さな玉のことをご存知だろうか。とんぼ玉とは、簡単に言えば色文様の付いたガラス玉で、紐を通す孔の空いたビーズのことである。漢字で書くと「蜻蛉玉」、欧米語では「glassbeads」と呼ぶ。
とんぼ玉の歴史は古く、メソポタミア文明やエジプト文明の時代にまで遡る。そして現在まで3500年に渡り世界各国で多種多様なとんぼ玉が作られ、多くの人々を魅了している。
 日本には江戸時代に南蛮貿易により伝来。表面に円文様をあしらった、とんぼの眼を思わせることから「とんぼ玉」と呼ぶようになった。以来400年あまり、様々な製法や表現方法が発達し、今では多数の現代作家のもとで美しいとんぼ玉が作られている。
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2007/6/15


碓氷関所跡 Usui-sekisho-ato The Ruins of Usui Checkpoint

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 碓氷関所跡は、群馬県安中市松井田町にあった関所跡である。三大関所のひとつとされている。
 元和九(1623)年、江戸幕府・二代将軍徳川秀忠によって中山道の関所が置かれた。
 いわゆる「入鉄砲に出女」の取締まりを狙いとしたものである。
 明治二(1869)年、廃関されるまで中山道の要所となった。
 昭和三四(1959)年、東京大学教授工学博士・藤島亥治郎の設計により、番所跡に、東門が復元された。
 門柱および門扉は当時使用されていた物で、総ケヤキ材の要所に金具を用いた、堅固な物である。
 毎年5月第2日曜日には碓氷関所まつりが催され、八木節や太鼓の演奏などが賑やかに披露されるほか、子供たちが扮する関所役人隊も登場し、可愛らしい姿を一目見ようと大勢が訪れる。
 碓氷関所跡は、往時を今に伝える歴史的建築物である。
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2007/5/29


水口宿 Minakuchi-juku Minakuchi-juku

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 水口宿(みなくちじゅく)は、滋賀県甲賀市にあった東海道50番目の宿場である。
 中世から伊勢参宮街道の宿場町として開けていた水口は、江戸時代、加藤氏の城下町として整備され、石橋を境に、東側は道が三筋に分かれた「三筋の通り」の宿場町、西側は水口城の城下町で道が鍵の手になっていた。
 水口城は碧の掘の水に映る姿から別名「碧水城」と呼ばれる。特産品は広重の東海道五十三次にも描かれている「かんぴょう」「藤細工」「煙管」などである。
 古城山の南に街並が形成され「街道一の人とめ場」と呼ばれるほど栄え、にぎわったという。
 現在も町の随所に常夜燈や城跡など名所旧跡が残り、当時の面影を偲ぶことが出来る。
 水口宿は、室町時代に伊勢参宮の宿村として設けられたのが初めと言われる、古い宿場である。
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石部宿 Ishibe-juku Ishibe-juku

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 石部宿(いしべじゅく)は、滋賀県湖南市にあった東海道51番目の宿場である。
 宿場の誕生については諸説ある。
 元亀二(1571)年、信長の治下で5ヶ村が合わさり「石部町」を形成した時点とする説。
 慶長二(1597)年、秀吉治下で信濃善光寺の輸送に役夫・伝馬を課せられた時点とする説。
 慶長六(1601)年、東海道各宿に朱印状が発せられ、伝馬徴発の定書が下付された時点とする説などである。
 石部宿は「京立ち石部泊り」と言われ、京都を出て1日目の行程に位置していた。近くには金山の採掘跡があり、堅実な人の例えで呼ばれる「石部金吉」はここから来ている。
 現在、石部宿駅や田楽茶屋の無料休憩所が整備されている。
 石部宿は、伊勢参宮街道との分岐点として多くの旅人で賑わった、京都から江戸へ下る旅人の多くが最初に宿泊した宿場である。
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草津宿 Kusatsu-juku Kusatsu-juku

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 草津宿(くさつじゅく)は、滋賀県草津市にあった東海道52番目、中山道68番目の宿場である。本陣は、国指定の史跡となっている。
 東海道と中山道が合流・分岐する交通の要衝として栄えた宿場町であり、宿帳には赤穂浪士や新撰組の著名な名前も見られ、当時の賑わいがうかがえる。
 宿場の歴史は古く、鎌倉時代には交通の要として重要視され、信長・家康の政策により宿場機能が整備された。
 今でも草津宿本陣が公開されており、貴重な資料が残されている。名物として安藤広重の画中にも描かれた「姥が餅」が有名である。
 草津宿本陣は、寛永一二(1635)年、設置された旧街道沿いに立つ白壁の建物で、江戸時代に大名や公家などの宿泊所だった。
 草津宿は、古く平安時代から続く交通の要所であった、長い歴史を誇る宿場である。
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2007/5/7


金箔(ドーミーイン金沢 中庭) Kinpaku(Domiin-Kanazawa Nakaniwa) Gold Foil (Courtyard in Dormy Inn Kanazawa)

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 金箔には通常の純金と同じく僅かながら銀・銅が混じるため、長い年月のうちに変色を起こすことがある。
 この四角の口は、温泉の蒸気が吹き出るところで、水分に常に触れている状態である上に、その水は普通の水ではなく「天然温泉」という腐食力の強い成分を含むものであるため、アクリル板に金箔を裏打ちするという方法が採用された。
 アクリルを通して見える裏打ちされた金箔面には、接着剤等の汚れはまったく見あたらない。
 水回りにもかかわらず、十分に金の光沢を表現することに成功。ホテルのロビーから眺めると、まるで金塊から温泉が湧き出るようである。
■ドーミーイン金沢 中庭
・透明アクリルに金箔を裏打ち
 およびコーキング
・サイズ(cm)
 w55×d55×h45
・デザイン n・o・a
■プロデュース
 ubushina 立川裕大
[→より詳しい記事を見たい方はこちら]
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2007/1/30


朝夷奈切通 Asaina-kiridooshi Asaina-kiridoshi

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 朝夷奈切通(あさいなきりどおし)は、神奈川県鎌倉市十二所と横浜市金沢区の間にある古代の要路であり、国指定の史跡である。
 鎌倉にはいくつかの切通し(防衛の為の人工的要路)がある。朝夷奈切通は、鎌倉七口と言われた切通しの一つであり、鎌倉と金沢・六浦を結ぶ要路であった。
 仁治二(1241)年、執権北条泰時が自ら指揮し、朝比奈三郎義秀が一夜で切り開いたという伝説から、この名が付いた。
 作られた背景には、当時の北条氏と三浦氏との争いがある。北条氏が三浦半島を通らないで房総に出るためには、六浦港へ連絡する道が必要だったのである。
 朝夷奈切通は、往時の雰囲気を色濃く残しており、鎌倉時代の文化と生活を我々に伝えてくれる古道である。
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2006/12/15


大阪欄間 Oosaka-ranma Osaka Ranma (Transoms)

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 大阪欄間の始まりは17世紀初期といわれている。大阪府内の聖神社や四天王寺等にその伝統技法のもととなる技術がみられる。江戸時代中期には商家を中心とした一般の住宅の茶の間、客間等の鴨居(かもい)の上に、光を取り入れたり、風通しを良くするという実用性と品格を保つための室内装飾として、取り入れられてきた。
 大阪欄間には、軽やかな存在感を持つ、屋久杉の木目を活かした「彫刻欄間」、日本家屋の直線の美しさに調和する「筬欄間」(おさらんま)や「組子欄間」(くみこらんま)、など多数の技法がある。
 素材の特徴としては、屋久杉などの銘木や、春日杉、吉野杉、秋田杉、会津桐、桧などが用いられ、それらを大阪独特の道具を使って加工する。特殊な技術を駆使して、下絵の墨の筆先による細かい線まで削りだし、繊細な表現まで形にしている。
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