NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/10/22


村雲御所 瑞龍寺 Murakumo-gosho Zuiryuu-ji Murakumo-gosho Zuiryuu-ji Temple

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 日蓮宗唯一の門跡寺院である村雲御所瑞龍寺(むらくもごしょずいりゅうじ)。今は滋賀県の八幡山の山頂にある。
 文禄五(1596)年、豊臣秀吉より切腹を命じられた、わが子秀次の菩提を弔うために、秀吉の姉、日秀尼(にっしゅうに)が創建したのが始まりである。
 この時、日秀尼は後陽成天皇から京都嵯峨の村雲の地と瑞龍寺の寺号を賜るのであるが、その後も宮家や摂関家からの入寺があったため、門跡寺院となり、村雲御所とも呼ばれるようになった。江戸時代には、嵯峨から西陣に移り、今は西陣織会館前に「村雲御所跡」の碑が立っている。
 昭和三七(1962)年、この寺の復興に生涯をかけた一二世貫首・日英尼は、秀次ゆかりの近江八幡城本丸跡への移転を決意し、現在の地に移った。
 遠くに鈴鹿連山の美しい山並み、南は近江の町並み、そして東には琵琶湖を一望できる。移築された本堂や庭園は、その後門跡たちの手によって整えられ、開かれた寺として、人々を迎え入れてくれる。
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2007/9/6


花巻まつり Hanamaki-matsuri Hanamaki Festival

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 岩手県花巻市で毎年九月の第二土曜日を中日として、三日間に渡って行われるのが花巻まつり(はなまきまつり)である。
 文禄二(1593)年、この町の開祖といわれる北松斎(きたしょうさい)を敬い、町民達が山車を作って町内を練り歩いたのが祭りの始まりといわれ、期間中、様々な行事が催される。
 唐竹を使った鯨を模したものから、やがて京都の「やかた」に似たものへと変貌を遂げ、今の絢爛豪華なものとなった「風流山車」。
 まつりを盛り上げる総勢140基を上回る「樽神輿」。
 町の平安を祈願し、悪霊を追い払う行事が舞踊化されたものといわれ、県の無形文化財にも指定されている「鹿踊り」。
 そして、京都祇園囃子の流れを汲むといわれ、大太鼓・小太鼓・笛・三味線が調和して祇園調を漂わせる中、千名もの踊り手たちによる優雅な「花巻ばやし踊り」の練り歩きなど、開催される三日間には祭りのエッセンスがこれでもかといわんばかりに凝縮されている。
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2007/8/14


富谷の田植踊 Tomiya-no-taue-odori Taue Odori in Tomiya

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 富谷の田植踊(とみやのたうえおどり)は、宮城県黒川郡富谷町に伝わる郷土芸能である。県の重要無形文化財に指定されている。
 田植踊りは古くから郡内各町村にあったが、現在では富谷町の原地区に残るだけとなっている。
 文禄元(1592)年、伊達政宗が秀吉の命によって文禄の役に出陣する際、門出に当たって原の田植踊りを披露すると、政宗はこれを褒め、褒美として踊りの衣装の裾に伊達家の家紋である「竹に雀」のうち、「竹の葉」の使用が許されたといわれている。
 以来400年、今日まで継承してきたのが富谷の田植踊である。
 構成は早乙女4、弥十郎2に太鼓、笛、唄上げなどであり、芸態は他所の田植踊と大きく違いはないが、早乙女や弥十郎の冠物に飾りがなくシンプルであるほか、意匠の紋の「竹の葉」が特徴とされる。
 富谷の田植踊は、代々受け継がれてきた貴重な民俗芸能である。
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2007/7/25


色鍋島 Iro-nabeshima Iro-Nabeshima (Colored Nabeshima Ceramics)

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 色鍋島(いろなべしま)は、有田焼のひとつの色絵磁器である。
 花鳥風月をモチーフに、繊細で緻密な色絵を施す色鍋島は、格調高く洗練された意匠が特徴。現在では、有田の名窯・今右衛門がその伝統と技術を継承している。
 文禄・慶長の役の際中国より連れ帰った陶工団により、日本で初めての磁器が有田で焼かれた。その後寛永年間の1640年代に中国より色絵の技術が伝わり、有田の初代今右衛門が色絵付けの磁器を作っていたとされる。その後、今右衛門は鍋島藩の藩窯となり、献上品や贈答品用の色絵磁器の仕事を担うことになる。これが色鍋島のルーツとされる。
 十代今右衛門が明治六(1874)年頃から本格的に色鍋島に取り組み、優れた赤絵の技法の確立に成功した。十三代今右衛門は現代の角度からの色鍋島に意欲を燃やし、平成元年には色絵磁器で人間国宝に認定された。
 現在も、十四代今右衛門が代々伝わる色鍋島の技を継承しながら、現代的な試みに励んでいるという。
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2007/4/27


仙台 覚範寺 Sendai Kakuhan-ji 

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 覚範寺(かくはんじ)は、宮城県仙台市青葉区北山にある臨済宗の寺であり、北山五山の一つとされている。
 天正一三(1585)年に非業の死を遂げた、伊達政宗の父輝宗の菩提寺である。
 翌、天正一四(1586)年、政宗によって米沢遠山村に創建された。政宗の師であり臨済宗の名僧として知られる虎哉和尚が、開山一世とされている。
 その後、伊達家に従って文禄元(1592)年、岩出山に、慶長五(1600)年、仙台愛宕山に移ったが焼失し、慶長六(1601)年、この地に再建された。
 政宗の正母・保春院の墓と政宗の三男・宗清、政宗正室愛姫の母堂などの供養塔が並ぶ。政宗の葬儀もここで行われている。
 また、覚範寺境内には、樹齢250年と推定されるヒヨクキバの古木が優雅に佇んでいる。
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2007/3/22


高野山 金剛峯寺 Kouyasan Kongoubu-ji 

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 金剛峰寺は、和歌山県伊都郡高野山町高野山に所在する。全国3600ヶ寺におよぶ高野山真言宗の総本山である。
 金剛峰寺の名称は、もともと高野山一帯の寺の総称で、ここは青巌寺と呼ばれていた。文禄二(1593)年、豊臣秀吉が亡き母の菩提寺として建立、文久三(1863)年に再建。その後明治時代に寺の名前を「金剛峰寺」と改め、総本山が置かれた。
 檜皮葺きの大屋根を持ち、東西54メートル、南北63メートルの大主殿(県の重要文化財)のほか、別殿、新別殿、奥殿、新書院、茶室などが並ぶ。大主殿の襖絵は狩野派の作。秀吉の怒りに触れ、豊臣秀次が切腹したとされる「柳の間」もある。日本で一番広い石庭、蟠龍庭は2400平方メートルの広さを持つという。
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古賀人形 Koga-ningyou 

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 長崎県に古くから伝わる「古賀人形」は、京都の伏見人形、仙台の堤人形と並んで日本の代表的な土人形のひとつである。どこか懐かしい、素朴で情緒豊かな作風が特徴である。
 はじまりは江戸時代。今から400年ほど前に、諸国を廻っていた京都の土師が古賀村(現古賀市)に立ち寄り、大村藩主の小川家に土器製作の技法を伝えた。その後文禄三(1592)年、京都伏見人形の流れを汲んだ土人形を作るようになったのがはじまりとされる。
 長崎は古くから、外国文化の影響を色濃く受けてきた街で古賀人形も、他の土地とは違い、オランダや唐などの外国文化を取り入れた独特のモチーフで作られてきた。
 色鮮やかで愛らしいこの古賀人形は今でも多くの人々を魅了し、全国から注文が殺到している。今では中里町藤棚在住の小川亨氏ただひとりで伝統の灯を守りつづけている。
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2007/3/19


多気城跡 Tage-jyou-ato Tage Castle Ruins

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 栃木県宇都宮市中心から北東7キロほどの人里離れた多気山の山頂にある山城。中世の頃、北関東支配の拠点であった宇都宮城の支城として築かれた。
 戦国時代末期には、戦国大名・宇都宮氏が北条氏の関東台頭に備え、ここ多気城を堅固で規模の大きな山城に整備し、戦闘の本拠地にしたとされる。
 宇都宮氏は文禄元(1592)年の朝鮮出兵にも参陣し、帰還後は豊臣姓を賜り従五位下に任じられたが、慶長二(1597)年、突然放免され、備前国配流となり、関東の名門・宇都宮氏は没落。それに伴い、多気城も廃城となった。
 宇都宮氏の総力を結集して築き上げたこの城は、多気山山頂を中心に多くの掘・土塁・曲輪(土塀)が山全体に配置され、その規模は関東屈指と言われている。
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