NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/10/1


あげ馬 Age-uma 

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 あげ馬は宮崎県都城市山之口町花木や高木町で行われる祭り。諏訪神社祭典の一環として行われる。
 天正二〇(1592)年、豊臣秀吉の朝鮮出兵において、島津藩主以久が諏訪神社へ出陣祈願し、そして凱旋後に馬を献上し、神楽を奉納したことから始ったとされている。
 その後、農民たちが豊作を願うために毎年7月に行われていたが、第2次世界大戦後途絶えた。昭和五九(1984)年に復活、現在は4年に1度行われている。
 諏訪神社に向かい、行列が練り歩く。先頭は鎧兜に太刀姿の「棒つき」で、その後に「弓」「鉄砲」が続く。7歳の稚児が乗る馬と、荷駄馬が中心となる。総勢70名ほどが神社に着くと、歌にあわせて参拝、拝礼する。
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2008/9/29


青島盆踊り Aoshima-bon-odori 

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 愛媛県大洲市の青島盆踊り(あおしまぼんおどり)は、毎年八月一三・一四日に開催される大掛かりで華やかな伝統行事である。
 一三日には魚を供養する賑やかな踊りの大漁踊りが、一四日には死者の霊を慰めるため、赤穂四十七士の亡者踊りが披露される。討ち入りの衣装や、鎧兜などを身につけ舞う亡者踊りは哀愁を帯びた印象である。
 青島は一七世紀までは無人島であったが、島原の乱により頻繁に船が往来しはじめ、播磨(はりま)の漁師が立ち寄ったことをきっかけに、播州(ばんしゅう)からの移住者が増えた。それが青島の盆踊りが赤穂四十七士にまつわる由来とされる。現在は県指定の無形民俗文化財に指定されている。
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2008/7/9


甲冑 Kacchu 

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 甲冑(かっちゅう)とは、戦闘において身を護る防具の事である。
 時代によって変わるが、甲は鎧(よろい)、冑は兜(かぶと)の事をさし、鎧は、身体のうちに胴体に着用する防御具の総称であり、兜は頭部の防具事で、鉄・金銅・皮革などで作られる。
 日本甲冑は構造によって九つの形式に分けられるとされ、上古に用いられた短甲・挂甲・綿甲冑、中世の武家政権時代に用いられた大鎧・胴丸・胴丸鎧・腹巻・腹当、近世江戸時代に用いられた当世具足がその形式とされる。
 日本の甲冑は、世界の防具と比較しても彩りが豊かで美しい事で知られており、その取り扱いにあたっては、素材が多種多様にわたる事や、兜・胴を中心に各部分をつないで組み立てる事から、構造上の理解が必須となっている。
 現代では、工芸品的、歴史資料的性格も持っている。
 甲冑は、鎧・兜をはじめとした日本伝統の防具である。
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2008/7/7


鉢金 Hachigane 

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 鉢金(はちがね)とは、激剣闘争を行う時、前額部に来る相手の剣を防ぐ為に自分の頭部にまきつけて用いた金属または鉄板の事で、額の兜、あるいはヘルメットともいえる存在である。
 手ぬぐいなどの布でくるんで額に鉢巻状に結んで使用したもので、鉄のはちまきである事からこの名が付いたと言われている。
 鉄製のため、少々の衝撃では傷はつかないという。
 ただ額を防御するためだけではなく、目に血が入るのを防ぐのにも効果があるともされている。
 その防具の性格から、幕末の戊辰戦争の兵士や新撰組などで使用された事で知られ、現在も実際に使用されたものが多くの残されているという。
 鉢金は、鉢巻などに縫いつけて、もっぱら前頭部を保護する、簡略な兜の一種である。
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2008/7/2


黒韋威胴丸 Kurokawaodoshi-doumaru 

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 黒韋威胴丸(くろかわおどしどうまる)は、広島県廿日市市宮島町の厳島神社(いつくしまじんじゃ)にある防具である。国宝に指定されている。
 厳島神社は、推古天皇元(593)年創建と伝わる古社で、全国の厳島神社の総本社とされる。祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)他2柱。
 黒韋威胴丸は、黒漆塗地盛上げ小札(こざね)の技法や、牡丹獅子文染韋・筋兜の意匠から見て、南北朝時代(1333~1392)以前のものではないが、現存の胴丸のうちでは古く、保存が良く形姿が雄大で精巧を尽した作である。
 日本の鎧は小札と呼ばれる短冊状の小さな板で構成されているが、黒韋威胴丸は黒漆塗盛上げの鉄小札と革小札を一枚交ぜにして、濃い藍染めの皮をもって紺糸で隙間なく綴った毛引威(けびきおどし)としている。
 黒韋威胴丸は、日本古来より伝わる貴重な防具である。
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2008/6/4


長岡城(芋引形兜城) Nagaoka-jou 

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 長岡城(ながおかじょう)は、新潟県長岡市にある城跡だ。
 もともとは南北朝時代に長岡市西蔵王付近に築城されていたが、元和二(1616)年、この地に入封した堀直寄(ほりなおより)によって信濃川からやや離れた現在のJR長岡駅周辺に新たに築城が開始され、代わって二年後に入封した牧野氏により越後長岡藩の居城として完成された。
 その縄張りは梯郭式の平城で、周囲には栖吉川と信濃川が取り囲み、自然の外郭を形造っていた。
 また、城の東側を流れる柿川から水を引いて堀を幾重にもめぐらしていた。
 しかし戦国時代以後の建築であるために防御力はあまりなかったと思われ、慶応三(1868)年の戊辰戦争の際、幕府軍に属した城郭は、城下共々焼失している。
 この城には逸話があり、ある新雪の積もった朝に一匹の白狐が長い芋の皮をくわえて歩きまわった跡が兜の形をしており、それを元に城の構えが考案された言われ、この逸話から芋引形兜城(おびきがたかぶとじょう)という別名も持っている。
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2008/4/22


もののふ(MONONOFU) mononofu Mononofu

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 サムライではなく、「もののふ(MONONOFU)」。自由で革新的な戦国時代の雰囲気を表現・発信する戦国ブランドである。
 現代アートの推進と伝統工芸の復権。そんな相反するかのように見える2つをさりげなく、しかし大胆に結びつけたのは歴史好きの一サラリーマン。
 国立博物館で変わり兜を見た田中秀樹氏は、これまで知らなかった世界を知り、圧倒されるとともに、その時興味を持っていたインディーズTシャツとのコラボレーションを考えたという。
 変わり兜が戦国武将の美意識であり、自己主張なら、様々なクリエイターが素材やデザインにこだわる現代のTシャツも自己表現の一つ。それならTシャツの中に変わり兜のデザインを取り入れていくことも可能である。また、もし現代に戦国武将たちがよみがえったら、自らの美意識で今の様々な素材やデザインを取り入れていくに違いない、とプロデューサーの田中氏は語る。
 現在、「天下『布』武プロジェクト」を推進中。
[→より詳しい記事を見たい方はこちら]
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2007/12/26


五月人形 Satsuki-ningyou 

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 毎年五月五日は端午の節句。奈良時代の宮中で、季節の変わり目を無病ですごせるように邪気をはらう為の宴会が行われていた事が起源である。江戸時代に一般人にも浸透して、徐々に男の子の誕生と健やかな成長を祝う日として定着していった。
 男の子が生まれて初めて迎える端午の節句を「初節句」といい、五月人形やこいのぼりなどを飾ってお祝いする。
 五月人形の種類は鎧飾り・兜飾り・子供大将飾りなど。鎧甲冑は身を守る意味、子供大将かざりはたくましくなるようにという願いが込められている。また、人形にはその子の厄をもらい受けるお守りの意味もある。
 節句の一〇日から二〇日前から節句まで飾られる。
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日本の美意識。

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