宗麟原供養塔 sourinbaru-kuyou-tou
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天正六(1578)年一一月、島津義久率いる島津軍と大友宗麟率いる大友軍の壮絶な九州制覇の戦いとなった「耳川の戦い」。戦場となった高城川の北にある宗麟原供養塔(そうりんばるくようとう)は、この時の戦死者のために、天正一三(1585)年に建てられた石造六地蔵塔である。
川南町の「かんかん原」と呼ばれる台地にあり、高さ一.七メートル。国の指定史跡となっている。
日向進出を狙った大友軍は島津氏の拠点である高城を囲んだが、高城の城主、山田有信(やまだありのぶ)はわずかな兵で籠城し激しく抵抗していた。これを知った島津義久率いる主力軍が大友軍を総攻撃し、北へ敗走する大友軍を耳川(日向市)まで追撃。この間七里の道が血に染まったという。これにより島津氏は九州随一の勢力となった。
その後両軍の戦死者は、高城と耳川の間にあるカンカン原の塚に葬られることとなり、島津義久は山田有信に、敵味方の区別なく手厚く葬るよう命じたという。別名、敵味方供養塔ともいわれる。
川南町の「かんかん原」と呼ばれる台地にあり、高さ一.七メートル。国の指定史跡となっている。
日向進出を狙った大友軍は島津氏の拠点である高城を囲んだが、高城の城主、山田有信(やまだありのぶ)はわずかな兵で籠城し激しく抵抗していた。これを知った島津義久率いる主力軍が大友軍を総攻撃し、北へ敗走する大友軍を耳川(日向市)まで追撃。この間七里の道が血に染まったという。これにより島津氏は九州随一の勢力となった。
その後両軍の戦死者は、高城と耳川の間にあるカンカン原の塚に葬られることとなり、島津義久は山田有信に、敵味方の区別なく手厚く葬るよう命じたという。別名、敵味方供養塔ともいわれる。
- 住所
- 889-1301 宮崎県児湯郡川南町大字川南
- 名前
- 宗麟原供養塔