NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/12/5


吉見百穴 yoshimi-hyakuana 

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 埼玉県の吉見町にある「吉見百穴(よしみひゃくあな)」とは、六世紀末から七世紀末、古墳時代の末期に造られた横穴墓の集合墳墓である。大正一二(1923)年に国の史跡に指定されている。
 凝灰岩砂岩の丘陵の側面に、無数の穴が開いている。凝灰岩砂岩は、掘削に適した岩盤であったことから、横穴墓が彫られたのではないかと考えられている。
 明治二〇(1887)年に発掘調査がおこなわれた時には、コロボックル人といわれる先住民族の住居跡ではないかという説があったが、大正時代末期になり、古墳時代末期の墓穴であることが判明した。
 現在確認できる横穴の数は、二一九基である。そのうち、国の天然記念物で緑色の光沢を放つ「ヒカリゴケ」が自生している横穴もある。
 また第二次世界大戦末期には、この岩山の地下に日本軍の旧軍需工場が造られ、その際に掘られた穴も残されている。
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2008/9/22


秩父夜祭 Chichivuyo-matsuri 

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 秩父夜祭(ちちぶよまつり)は、埼玉県秩父市番場町の秩父神社にて、毎年一二月一~六日に開催されている例大祭であり、京都祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭の1つに数えられている。
 秩父神社は崇神天皇の御代(紀元前97~紀元前30)に創建されたと伝えられる古社で、祭神は八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)、知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、秩父宮雍仁親王(ちちぶのみややすひとしんのう)。
 例大祭は古代から神事祭礼として行われてきたとされているが、具体的な開始時期は不明である。享保年間(1716~36)、例大祭に付祭として、笠鉾・屋台の曳行をはじめとする屋台行事が始まったと言われている。
 毎年一二月二日が宵宮、一二月三日が大祭で、国指定の重要民俗文化財である6台の屋台・笠鉾が牽引され、三日の夜にクライマックスを迎える。秩父の人々にとっては、1年の総決算ともされる祭りである。
 
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2008/8/4


龍勢祭り Ryuusei-matsuri 

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 龍勢祭り(りゅうせいまつり)は埼玉県秩父市の椋神社(むくじんじゃ)で毎年一〇月の第二日曜日に行われる祭りである。
 椋神社は平安時代の律、令、格の施行細則を集成した法典『延喜式(えんぎしき)』の神社一覧を記した『神名帳(じんみょうちょう)』にも載る古い神社である。
 龍勢祭りは江戸時代から行われている祭りであり、その名の通り、今でいうロケット花火を農民たちが打ち上げ、その花火が勢いよく上空を舞う姿が、まさに龍が天を昇る姿であるように見えたことからこの名がついたといわれている。
 祭りの当日には龍勢作りの27の流派が、それぞれ工夫をこらしたロケット花火を打ち上げる。龍勢作りには長い竹を利用し、火薬筒に松材を使い、縦に真二つに切って中をくり抜き、それを合わせて竹のタガをかける。火薬は黒色火薬を使う。
 祭り当日は朝9時頃から東西、東西から椋の神社にご奉納の口上とともに総勢30発のロケットが打ち上げられる。
 龍勢祭りは埼玉県の無形民族文化財に指定されている。
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2008/7/31


釈迦降誕祭 Shaka-Goutansai 

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 釈迦降誕祭(しゃかごうたんさい)は毎年五月に埼玉県坂戸市の永源寺(えいげんじ)で執り行われる仏事のお祭りである。
 永源寺は江戸時代に開基された曹洞宗の寺で坂戸のお釈迦さまと知られている寺である。
 祭りの起源は、寛文二(1662)年永源寺の三代目である島田忠政が長崎奉行として赴任した時、中国より伝来した降誕釈尊仏を入手し永源寺に納めた事から始まったといわれている。また、祭りの時期は坂戸の農家の農繁期の前であり、主産業である養蚕の安全と繁栄を願うため、いわば、農事暦の節目としても重要な意味を持つ祭りでもあった。
 祭りでは、本堂の前の花御堂(はなみどう)に納められている誕生仏に柄杓で甘茶をかけて無病息災や家内安全、商売繁盛を祈願する他、永源寺には江戸吉原を代表する名妓であり、江戸北町奉行嶋田忠政の五男権三郎と仙台の大名・伊達綱宗が奪い合ったと言われる高尾太夫が祀られていることから、昔ながらの花魁道中も行われる。
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2008/6/5


両神山 Ryoukami-san 

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 両神山(りょうかみさん)は、埼玉県の秩父郡小鹿野町~秩父市にまたがる、標高1723mの山である。日本百名山のひとつに選ばれている。
 秩父連山の多くの山々と異なり、岩が砦のようにそそり立ち、のこぎり歯のように見える男性的な山として有名で、奇岩峰を屏風のように見せている岩稜は、どの方面から見てもすぐにそれとわかる独立した山容をなしている。
 古くから信仰の山として麓の地域の人々のくらしと密接に関わりを持ってきた山で、両神山の名はイザナギ、イザナミの尊を祀った事に由来するとされ、登山道には神社や石仏を沢山見る事が出来る。
 多くの動植物が生息し、特に春の新緑とヤシオツツジ、初夏のブッポーソー、秋の紅葉は、見応えがある。
 両神山は、秩父多摩甲斐国立公園の一角にある、信仰の山である。
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甲武信岳 Kobushi-dake 

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 甲武信岳(こぶしだけ)は、山梨県山梨市~埼玉県秩父市~長野県南佐久郡川上村にまたがる、標高2475mの山である。別名・甲武信ヶ岳(こぶしがだけ)とも言われ、日本百名山のひとつに選ばれている。
 かつて甲州、武州、信州と呼ばれた山梨県、埼玉県、長野県にまたがっている事から、甲武信岳という名前になった。
 奥秩父山塊の中のひとつで、長野・新潟を横断し日本海に流れる信濃川の源流にもなり、山梨・静岡を通って太平洋にながれる富士川、東京湾へ流れる荒川の分水嶺となっている。
 奥秩父の中心にあり、奥秩父のヘソとも言える。山頂からは、富士山・南アルプスの山々などが眺望出来る。
 甲武信岳は、絶大な眺望と落ち着いた趣を備えた山である。
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2008/2/27


鉢形城 Hachigata-jou 

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 鉢形城(はちがたじょう)は、埼玉県大里郡寄居町鉢形にあった城である。国の史跡に指定されている。
 文明八(1476)年、山内上杉氏の家宰・長尾景信の嫡男、長尾景春が、家督を叔父の長尾景忠に継承させた事に怒り、復讐のために鉢形城を築城したとされる。
 景春は何度も山内上杉氏と戦い、鉢形城で籠城したが、最後には敗れて城を去っていった。
 戦国中期には北条氏のものとなり、北条氏の北関東支配の拠点となったが、天正一八(1590)年、豊臣秀吉の小田原討伐にて前田利家・上杉景勝らの連合軍に包囲され、落城。廃城となった。
 現在、城跡は史跡公園として整備されており、二の丸、三の丸、外曲輪などが残っている。秩父曲輪には庭園や四脚門・建物なども復元され、各曲輪は土塁と堀で区画されており、外郭には鉢形城歴史館が建設されている。
 鉢形城は、埼玉を代表する大規模で要害堅固な中世の城跡である。
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2007/12/26


秩父銘仙 Chichibu-meisen Chichibu Meisen

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 秩父銘仙(ちちぶめいせん)は、埼玉県秩父市で古来より生産されている知々夫絹を用いた絹織物である。
 崇神天皇の御代(紀元前149~紀元前29)に、知々夫彦命(ちちぶひこのみこと)が周辺住民に養蚕と機織の技術を伝えたことがその起源といわれる、大変古い歴史を持つ織物である。
 元来、屑繭や玉繭から採取した太い糸を緯(よこ)糸に用いた丈夫な織物で、養蚕を営む人々の自家用として織られていた。
 ただ、そのとにかく丈夫なことや平織りで裏表がなく、表が色あせても裏を使って仕立て直しができるという特徴などが庶民の間でもてはやされ、発展していくこととなる。
 武士の間でも大いに珍重され、古来よりの伝統を受け継ぎつつ、品質の良いものへと発展を遂げ、明治から昭和初期に掛けて最盛期を迎えることとなった。
 その豊かなデザイン性で、明治や大正の先人達の心を射止めた織物は、今も伝統を守りながら大事に織り上げられている。
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