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2008/11/10


伊豆国分寺 izu-kokubunji 

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 伊豆国分寺(いずこくぶんじ)は、奈良時代、伊豆国に建てられた国分寺である。静岡県三島市泉町にあり、現在は日蓮宗の寺となっている。本尊は釈迦如来。
 国分寺は、国家の太平を願って天平一三(741)年、聖武天皇の命により、全国66か所に建立された。
 創建当時の国分寺は焼失しており、その後真言宗の寺として再建されたが、戦国時代中期に北条氏と武田氏の戦火によって焼かれてしまった。
 その後、江戸時代初期には日蓮宗の寺院が建てられたが、安政二(1855)年の大地震で被災。大正一二(1923)年に称蓮寺が建立され、昭和二九(1954)年に「国分寺」改称したのが現在の伊豆国分寺である。
 昭和三一(1956)年にかつての伊豆国分寺の発掘調査が行われ、南門から中門・金堂・講堂の配置が確認された。
 今の国分寺の本堂裏手には、七重塔の礎石のうち八個が残されており、国の史跡に指定されている。
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2008/9/12


相国寺 Shoukoku-ji 

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 相国寺(しょうこくじ)は、金閣寺や銀閣寺をはじめとして、約一〇〇の末寺を擁する臨済宗相国寺派の大本山である。
 室町幕府三代将軍の足利義満が、後小松天皇の勅命をうけて、明徳三(1392)年に完成した広大な寺院で、夢窓疎石(むそうそせき)を開祖として建立された。約一〇年をかけて建立されたが、応仁の乱の戦火により焼失してしまう。度重なる災難にも関わらず、幾度も再建され多くの高僧を輩出した。
 わが国最古の法堂は、入母屋造りの唐様建築で、本尊の釈迦如来は運慶の作といわれている。仏殿や金堂は存在せず、この法堂が仏殿を兼ねている。
 天井に描かれた「蟠龍図」は狩野永徳(かのうえいとく)の嫡男である狩野光信(かのうみつのぶ)の作である。見る角度により、龍の顔や眼が動くように見えるのが特徴で、この絵の下で手をたたくと、堂内にその音が響き渡り、その音がまるで龍が泣いているかのような声に聞こえたことから、通称「泣き龍」とも呼ばれている。
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2008/8/22


斑鳩寺 三重塔 Ikaruga-dera Sanjuu-no-tou 

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 斑鳩寺(いかるがでら)は、兵庫県揖保郡太子町鵤にある天台宗の寺である。本尊は釈迦如来・薬師如来・如意輪観音。聖徳太子霊跡28番、新西国三十三箇所霊場第32番札所とされる。
 推古天皇一四(606)年、聖徳太子が当時住んでいた大和国斑鳩宮からこの地に来て伽藍を建設し、斑鳩莊と名付けたのが斑鳩寺の創始と言われている。
 三重塔は、室町末期に建造されたといわれるが、当初の塔は戦国時代に焼失し、後に領主・赤松政秀により永禄八(1565)年に再建された。国の重要文化財に指定されている。
 塔は、本瓦葺、高さ24.85mで、四方に石段があり、擬宝珠高欄を付した縁をめぐらす。中央間板唐戸で、脇間連子窓、中備えは三間とも、柱の肩に蓑を着せたような装飾を付けた蓑束(みのづか)となっている。
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2008/5/9


興福寺 北円堂 Koufuku-ji Hokuendou 

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 興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町にある法相宗大本山の寺院である。本尊は釈迦如来で、西国33箇所第9番、南都七大寺第2番、西国薬師霊場第4番札所とされている。
 天智天皇八(669)年、藤原鎌足夫人により創建、和銅三(710)年に藤原不比等によって現在地に移転、興福寺と改称された。
 北円堂(ほくえんどう)は、養老五(721)年、藤原不比等の一周忌として不比等の霊を慰めるため、元明上皇と元正天皇が長屋王に命じて建てさせた。
 現在の建物は承元二(1208)年頃に再建されたもので、興福寺に現存している建物の中では最も古い建物となる。
 堂内には、いずれも国宝である運慶一門が制作した鎌倉時代の本尊・弥勒如来像や、無著(むちゃく)・世親(せしん)菩薩像などを安置している。
 興福寺の北円堂は、華麗で力強く、優美な八角堂である。
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興福寺 東金堂 Koufuku-ji Toukondou 

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 興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町にある法相宗大本山の寺院である。本尊は釈迦如来で、西国33箇所第9番、南都七大寺第2番、西国薬師霊場第4番札所とされている。
 天智天皇八(669)年、藤原鎌足夫人により創建、和銅三(710)年に藤原不比等によって現在地に移転、興福寺と改称された。
 東金堂(とうこんどう)は、神亀三(726)年、聖武天皇が元正太上天皇の病気平癒を祈願し、創建された。
 現在の建物は、焼失後の応永二二(1415)年に再建されたものであり、国宝に指定されている。
 堂内の本尊・薬師如来像、脇侍の日光・月光の両菩薩像は共に国の重要文化財に指定されており、文殊菩薩像、維摩居士像、十二神将像、四天王像はいずれも国宝に指定されている。
 興福寺の東金堂は、多くの宝物が収蔵されている建築物である。
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2008/3/6


興福寺 大湯屋 Koufuku-ji Ooyuya Kofuku-ji Temple, Ooyu-ya Bathhouse

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 興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町にある法相宗大本山の寺院である、藤原氏の氏寺である。本尊は釈迦如来で、西国33箇所第9番、西国薬師霊場第4番札所とされている。
 天智天皇八(669)年、藤原鎌足夫人により現在の京都市山科区に山階寺(やましなでら)という名称で創建され、和銅三(710)年、藤原不比等によって現在地に移転、興福寺と改称された。
 大湯屋(おおゆや)は、五重塔の東方に建っている中世の風呂で、創建年代は不明であるが、現在のものは応永三三(1426)年頃の再建とされ、国の重要文化財に指定されている。
 南北四間・東西四間の本瓦葺で、西側は入母屋造、東側は切妻造となっており、中には口径136cmの大きな鉄の湯釜が2基存在し、沸かしたお湯から立ちのぼる蒸気にあたる蒸し風呂となっている。
 中世以後は、大衆蜂起の衆議所としても使われた。
 興福寺の大湯屋は、中世の浴室建築として大変貴重な建物である。
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2007/11/28


如意寺 三重塔 Nyoi-ji Sanjuu-no-tou 

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 兵庫県神戸市の如意寺(にょいじ)は、今から千年ほどまえに願西上人によって開祖されたとされている。現在は本堂が礎石を残すのみとなっており、本堂を取り巻く阿弥陀堂、三重の塔、文殊堂が残っている。
 三重の塔は、元和五(1619)年の修理の際に発見された相輪の龍車の刻銘に「至徳二(1385)年に建立」とあり、建築様式をみても鎌倉末期から室町初期にかけての創建であると考えられている。
 高さは約21メートル、純和様の建築である。本瓦葺の深い軒をしっかりと支えている三手先組物(みてさきくみもの)が豪奢だ。
 三層各階には、それぞれ大日如来・釈迦如来・多宝如来を安置して法華経と密教思想の融合を表している。
 小高い丘に建っており、落ち着いた色調が周囲の景観と良くなじみ美しい。一一月初旬になると、周りはハゼやモミジなどの紅葉を楽しむことができる。
 昭和二七(1952)年に国指定重要文化財に指定されている。
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2007/11/15


徳島 法輪寺 Tokushima Hourin-ji 

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 四国霊場第九番である法輪寺(ほうりんじ)。
 弘法大師が四国を巡られる途中、この地で白蛇を見つけた。白蛇は仏様の使いであるといわれていることから、この場所にお寺を建立し、白蛇山・法淋寺と名づけたのが始まりされている。
 ご本尊は弘法大師が刻まれた涅槃釈迦如来像(ねはんしゃかにょらいぞう)で、お釈迦様が涅槃に入られた様子を表したもの。八十八か所唯一の、貴重な涅槃像である。
 昔、松葉杖なしでは歩けない人がこの寺に参拝に来た際、参道で突然足が軽くなり、松葉杖なしでも歩くことができ、ついには足が完治したという逸話が残されている。そのため、現在でも本堂にはたくさんの草鞋(わらじ)が奉納されている。
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